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 空を見上げると、敬祐は「まいったな」とつぶやいた。天気予報では、今日は晴れ時々曇りのはずであった。しかし、急に空が暗くなってきた。今にも、雨が降りだしそうな気配であった。
 本屋へ行った帰り道であった敬祐は、半ば小走りに家に向かう道を急ぎ始めた。だが、ついにぽつりぽつりと雨滴が頬に当たり始めた、と見る間にそれは本格的な降りになって来た。急いで駆け始めた敬祐は、とある店先の軒に息を切らせて走りこんだ。小脇に抱えていた、本の包みが濡れていないか確かめてみる、それからやれやれといった様子でハンカチを取り出すと顔を拭き始めた。
 先に雨宿りをしていたのであろう、若い女が彼を見ると云った
「あら、矢島君じゃない」
 敬祐は、驚いた。
 彼女の名前は『藤原詩織』小学校時代の同級生であった。

 だが彼女は敬祐にとって、単なる同級生というだけの存在ではなかった。だから敬祐はこの偶然の出会いに驚いたというより、ひどく動揺していた。そうして、いったい自分はどういう表情をすればよいのだろう。途方にくれたが、彼女は屈託なさそうに微笑んだ。それで、祐介もようやく落ち着いて、微笑み返すことができた。
 「しばらくぶりだね、こんなところで、遭うとは思っても見なかったからびっくりしたよ、急な雨だものな」
 「私も、誰か駆けてきたと思ってたら、敬ちゃんだったから私もびっくりしたわ」
 彼女は、昔の敬祐の呼び方をした。
 「しばらく、止みそうにないよ。よかったら、ちょっと話でもしないか」
 そういって、敬祐は辺りを見回した。
 「よかった、そこに喫茶店の看板があるよ。いいかい」
 敬祐は、詩織がうなずくのを見届けると、入り口の扉を開けた。そこには二階に続く細い階段があった。

 二人は、テーブルに着くとコーヒーを注文した。
 「ここに、喫茶店があるとは知らなかったよ」
 「私もよ、店の前はいつも通っていたのにね」
 確かに、こんなことが無ければ、自分もずっと気が付かなかったかもしれない。なにせ、入り口の看板がとても小さい。この店の存在を示すものは、おそらくその小さい看板くらいしか無いのかも知れないと、敬祐は思った。小さめの窓には、薄いレースのカーテンがかかっていた。店の中は少し暗くて、小さなシャンデリア風の灯りがそこはかとなく懐古的な雰囲気を醸(かも)し出していた。どちらかというと、小さな店であったが、敬祐は気に入った。ここならゆっくり話ができそうだった。店の中にはスクリーンミュージックが微かに流れていた。

 敬祐は、改めて詩織を見ていた。
 きれいになったな、心の中でそう思った。
 小学校を卒業してから、会って話をするのは初めてであった。心の中で指を折って数えてみた。
 「小学校を卒業してから、九年になるのか。早いものだね」
 「そうよ、矢島君はもう大学生だもんね。今何年目なの」
 「三年目だよ」
 「ということは、留年してないんだ。真面目にやってるんだ」
 「もちろんさ、それより藤原さんは今何をしているの」
 「私は、原田商会というところで事務をしているの」
 「ああ、知っているよ。厨房関係の卸をしているところだろう。仕事は楽しいかい」
 「楽しいといえば楽しいし、そうでないといえばそうでないと。矢島君は大学生だから、それはもっと楽しいのでしょう」
 「うん、そうかもしれないな。僕のほうは何といっても気楽な身分だからな」
 「飲みになんかにも、よく行ってるんでしょう」
 「うん、そこそこね」
 そこで、少し会話が途切れた。そうして、詩織が聞いた。
 「矢島君、就職はどうするの。やっぱり本州に行くの」
 「うん、僕の専攻は工学部なんだけど、地元にはなかなか、企業が実際のところ少ないんだ。だからそういうことになると思うんだ」
 「そう」
 そうして、しばらく詩織は口を噤んだ。

 敬祐は、そのとき先ほどから感じていた違和感の原因に気が付いた。小学生の時と、今目の前にいる詩織とがどうしても結びつかないところがあったのである。彼女は、小学生の時とても特徴的なことがあった。それは、すこし甲高い声でひどくといっていいほど舌足らずのじゃべり方をしていたのである。そうして、敬祐の中の詩織はちょっとしたことでも実によく笑う少女であった。

 だが、目のまえの詩織は、まったく違っていた。
 声のトーンは女性では少し低いくらいであったし、しゃべり方は落ち着いていた。同じ年代でも敬祐は、社会人に対してある種のコンプレックスみたいなものを感じることがあった。それは未だ働いていないからという、いわばまだ一人前になりきれていないという引け目みたいなものであったと思う。それを、同じく彼女に関しても感じている自分があった。そうして、時折見せる彼女の微笑みは控えめなもので、彼女の仕草や表情には一人前の女性の落ち着きが備わっていた。でも、自分も彼女も成人していたのであるから、それは当然の事だといえば、当然のことではあったはずである。

 だがと、敬祐は思った。目の前の詩織が昔のように、はじける様な笑い顔を見せても、現在の彼女の年であっても自分は決して違和感を感じることはなかったにちがいない。だが、あのときから全ては変わってしまったのだ。敬祐には、忘れられない思い出があった。

 詩織とは、小学校の五年と六年の二年間同級生であった。いつごろからであったろうか、彼女のことを気にしだしたのは。それが、初恋のようなものだったのかもしれないと敬祐は思った。とにかく可愛い子で、笑顔が印象的であった。だがクラスの中では決して目立つ存在ではなかった。なぜなら、決して暗いというほどの性格ではなかったが、おとなしくて、全てが控えめであった。敬祐は、かえって彼女のそんなところが好きであった。

 当時、敬祐の家は街中から少し離れたところにあった。それでも、徒歩で行けない程の距離ではなかった。彼女の家は、敬祐の家と街中の中ほどのところにあった。ただし、それは少し遠回りをすればということではあったのだが。
 敬祐が、彼女のことを初めて意識しだしたのは五年生の夏頃ではなかったろうか。
 敬祐は、街に行った帰りに彼女の家の傍を通るようになっていた。だがそれは、彼女に会いたいとかいった明確な考えがあってのことでは、なかった。ただ、彼女の住んでるところの近くを通ってみたいという、そんなたわいのない心情からであった。
 だが、ある夕暮れ時、丁度玄関を出てきた彼女を見かけることになった。ほんの一瞬であったが、目線が合った。彼女は敬祐を見ると「あら」という表情をした。
敬祐は、照れくささを感じてそれから早足に歩き始めていた。それからも二三度そんなことがあった。相変わらず通りすがるだけであったが、目礼をかわすようにはなっていた。
 そのことで、詩織も敬祐を意識するようになったのだろうと思う。それまで、クラスのなかでも、ほとんど言葉を交わしたことがなかったが、何とはなく詩織が話しかけてくるようになったのはその頃からだったと思う。だが、それもほんとうにささやかな、目立たないことであった。当時、ちょっとしたことでも噂になって、相合傘のらくがきを書かれたり、からかわれたりすることはよくあることだった。でも、二人はそのようなことはなかった。そうして、なにごとも無ければ、二人の感情はもっと発展していった行ったかもしれなかったと、敬祐は後からそう思った。

 六年生になって、敬祐は詩織の視線に、今まで以上に親密なものを感じるようになっていた。そうして、自分も詩織のことを好きなのだと思うようになった。しかし、思いもよらない出来事から、淡い恋の予感が崩れてしまったのである。

 札幌から『大澤奈津子』という子が転校してきた。敬祐の住むこの町は、地方都市としては決して小さいほうではなかったが、札幌に比べたらまさに田舎といってよかったであろう。彼女は、都会の雰囲気と華やかさを持ってきた女の子であった。そうして、もちろん敬祐たちと同じ年であったはずだが、妙に大人びてみえた。
 そんな彼女に、クラスの男子達はすっかり夢中になったが、敬祐もその一人であった。しかし、その時、詩織はそのことには気が付いていなかったのだろうと、敬祐は思う。

 それは、修学旅行のグループ分けのことでの出来事であった。
 担任からは、自分達でグループ編成をするようにいわれていた。もちろん、男女別にであったが、グループの人数だけが指定されていた。さらに、その後男女のグループ編成もすることになっていた。そのやり方は各グループでリーダーを決めて、そのリーダーどおしで話し合って決めるというものであった。敬祐も、詩織もそうして奈津子もリーダーに選ばれていた。男子の注目は、どのグループが奈津子のグループと一緒になるかということであった。
 結局、敬祐のグループが奈津子のグループと組むことになった。その後、敬祐と奈津子はちょっとした噂のカップルになった。

 敬祐は、言葉を交わさなくても、詩織は敬祐が声を掛けてくれることを待っていることは分かっていた。だが、どうしても、敬祐は奈津子と一緒のグループになりたかったのである。グループ分けの発表がなされたとき、敬祐はそっと詩織の方を見た。彼女は、じっとうつむいたまま顔を上げなかった。

 それから、敬祐は皆の気づいていないあることに気が付いていた。それは、詩織のあのはじけるような笑顔がみられなくなったことである。たまに見せる笑顔にも、どことなく寂しい面影を感じるのは、自分の思い過ごしだけではないような気がしてならなかった。

 奈津子とは良い友達であったと思う。小学校の卒業と共にまた違う街に引っ越していった。風のように去って行った懐かしい女の子であった。詩織とは中学も高校も違った。だが、高校のとき学校対抗の何かのスポーツ大会の時見かけたことがあった。そのとき、敬祐は彼女の姿を目で追っていた。セーラー服が良く似合っていたことを覚えている。高校を卒業した敬祐は、地元のK工業大学に入学していた。そうして今日の突然の再会であった。

 詩織が口を開いた。
 「私は、矢島君がうらやましいわ。新しい街でいろんなことを、経験するんでしょうね」
 「そうだね、不安がないわけじゃないけど、期待の方が大きいよ」
 「私は、この町でずっと、平凡な生活をしていくと思うわ。すこしだけ寂しい気がするけど」
 敬祐は、彼女がそう言った意味を少し推し量った、そうしてこう云った。
 「本当は、僕もこの町は大好きなんだ。でも出て行くのは仕方の無いことなんだ」
 「そうね、でもまた休みには戻ってくるんでしょう」
 「そうだね」
 それから、敬祐はいろいろな話をしたと思う。だが、詳細を思い出そうとすると思い出すことができなかった。おそらく、たわいのない話をしていたのだと思う。

 窓越しに空を見ると、いつの間にか雨は、上っていた。
 敬祐と詩織はゆっくり階段を下りていった。
 扉を開けると、敬祐は「あのう」と云った。
 そういわれた詩織は、敬祐の目を見つめてきた。
 敬祐はその時、詩織の瞳が昔のように、黒くキラキラと輝いていることに気が付いた。
 だが、言葉を続けようとして、本当は自分は何をいいたかったのかそう思っていた。結局云ったことは、二人にとっては別れの言葉であった。
 「元気で、頑張って」
 「あなたもね」
 彼女は、少し寂しそうな表情で瞬きをするとそう云った。
 「僕は、こちらのほうだけど、藤原さんは」
 「私は、こちらの方だから」
 「そうか、それじゃ」
 「さようなら」
 そうして、二人は背をあわせると別々の方向へと歩み出した。

 歩きながら、敬祐は改めて自分の気持ちと向き合っていた。
 敬祐は、いままで付き合ってきた女性がいないわけではなかった。だがずっと詩織のことは心の中にあった。それが、単なる子供のときの懐かしい思い出だけなのか、それともそうではないもっと大切な恋愛感情なのか、それは自分でも分からずにいた。
 だから、今日の偶然の再会は得がたい機会であった。そうして、久方ぶりに会った詩織は、思っていた以上に素敵な女性になっていた。付き合ってくれないかとか云わないまでも、また会ってくれないかくらいは聞くことが出来たはずであった。
 しかし、敬祐には、あのことの記憶が、心の底に苦い澱(おり)のようにわだかまっていた。自分は、いずれこの街を出て行く、そうして自分のこれからの将来は、非常に曖昧で頼りないもののように思えた。だから、詩織の心を再び傷つけてしまうかもしれないという恐れを拭い去ることは出来なかった。
 だが、このまま本当に別れてしまっても後悔することはないのだろうか、祐介はどうしても思い切れないものを感じた。もし、彼女が振り向いたら、そう思うと敬祐はそのまま歩みを続けることができなかった。敬祐は立ち止まると振り向いた。

 鬼の夕焼けという言葉がある。
 信じられないほど幻想的で、美しい夕焼けであった。
 詩織は、その中をゆっくり歩いていた。
 敬祐は、暫くじっとその詩織の後姿を見詰めていた。
 きっと、自分はこの光景を忘れることはないだろう。敬祐は幾分悲しい気持ちでそんなことを考えた。
 それから、少し経って、敬祐は元の道に向かって歩き始めていた。

<完>

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