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一章 記憶
私はこんな話しを聞いたことがある。つまり人間の脳は不思議だということである。何をいまさらと思うかもしれないが、我々は自分の経験したことは紛れもない事実だと思っている。だが果たして本当にそうなのだろうか、なぜなら我々がそうだと思っていることは、脳がそのように認識しているだけなのかもしれない。たとえば、宇宙人に会ったという人たちがいる。彼らの、記憶は非常に具体的でなおかつ彼らにとって、まったくのリアリティに満ちている。ある有名な脳科学者はそのことを、脳がそのように認識している以上彼らにとって宇宙人は存在しているのだと云っていた。
そのようなことから、どんな不思議なことであってもそれが記憶の混迷だときめつけることはできないと、私は思うのである。
私は今、ある通りから、ビルを眺めていた。ビルといっても飲み屋街の雑居ビルで三階建てのそう大きくはない建物だった。北海道の地方都市のこの町には良くありそうなものだった。だが、少しばかり他のビルよりは風情があって私は良いと思った。外壁はレンガ調でところどころコンクリートの下地の見えているところはあるが、さほど全体としては痛んではいない。その時代を感じさせるところが私は気に入っていた。
まあ、そう感じるのはあくまでも私の感情であって、人によってはただの古ぼけたビルの一つだったのかもしれない。
数日前のある記憶をたどると、私が入った店はこのビルに間違いないという感じがする。
そのビルの一階は、いかにも地方のスナックというような、小さな店が何軒かあった。
夕暮れ時はまだ、それらの店も眠っているようで、何かしらそのビルに足を踏み入れるのは何となく躊躇(ためら)われる雰囲気があった。
私は、狭い階段を上り始めた。その階段は折り返しになっていて、その折り返しのところを曲がると、二階の手前に、関係者以外立ち入り禁止と書かれた立札が置いてあった。
実は先ほどここに来たのである。そうして私の記憶の中ではその階段を上った右手にその店があったはずなのであった。それで、やはりこのビルではないのかと、一度外に出て、道を渡ってこのビルを見直したということであった。
私はそこでしばらくたたずんだ。立て札があるということは二階には店が無いということなのであろう。
ああここで、ひとつ説明しておこう。
昔はバブルなんて言葉があって、えらく景気の良い一時期もあったが、最近はとんとそんな良い話があるわけでもなく、飲み屋街も随分寂(さび)れてしまっている。あちこちの雑居ビルも、やたら貸し店舗ありという広告が目立って、店も歯抜けになっている。特に、上の階には空きが多い。このビルもそうなのであろう。
だが、私の記憶では、確かに間違いなくその店は二階にあったと思う。立て札の先の二階はしんと静まり返って、薄暗かった。
しばらく私は躊躇していたが、思い切ってその札を無視して二階にあがることに決めた。札の脇をゆっくり上り二階の廊下に出た。
そこは、たしかにがらんとしていた。まったく人のいる気配が無かった。
すぐ右手だったと思う、その店は。だが、その店のあったはずのところは、確かにドアはあったが、看板も暖簾も何にもなかった。だが、私のおぼろげな記憶を探ると、真新しい木のドアで、『森』という看板が出ていた。緑色の鮮やかな暖簾が架かっていた。その時はまだそれほど酔ってはいなかったから、そこのところの記憶は比較的はっきりしている。
だが、そのドアは確かに木であるし形もそのようであったが、ひどく古ぼけていた。
私は狐につままれた気持ちとはこのようなものであろうと思う。そのまま、私はドアの前で立っていた。
そうして、私はそのドアを開けてみようという気になっていた。だが、本来私は部外者立ち入り禁止のところにいるのである。だから、そんなことをしてはいけないのだという気がしていた。
でも、私はその店が私の入った店だったのか確認したいという好奇心を、どうしても抑えることができなかった。
そうして、私はドアの取っ手に手をかけた。
その瞬間、私はドアを開けてはいけないという声を聞いたような気がした。私の動悸がひどく高鳴って、暫く身動き出来ずに立ちすくんでいた。開けてはいけない、開けてはいけない、なぜか強迫観念のように心の中でその言葉がこだましていた。だが、わたしはどうしても、そこを見たいという誘惑に勝つことが出来なかった。
私は、そのノブを掴む手に力を込めた。
だが、ほんの少し回っただけでそのノブはロックされていた。鍵がかかっていたのであった。
私は、その手を離した時にじっとりと汗をかいてることに気が付いた。緊張か、安堵かそのどちらだったのか私にもよく分からなかった。