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三章 初めての店

 それから、皆で二次会に行った。所長が先に帰ったからという訳でもあるまいがとても盛り上がった。そのころには、私も酔いのせいで屈託がなくなっていた。そのカラオケスナックでは、私も結構歌を歌った。
 二次会が終わったのは、10時頃ではなかっただろうか。さすがに、この後もどこかへというものは少なかった。それでも二三人の好きな連中はどこかへ行く相談をしているようであった。ほんとんどの者は、それぞれタクシーを捕まえて帰っていった。私はといえば、この職場で唯一歩いて帰れる距離に家があった。だから三次会に行ってもよかったのだが、先ほどの相談していた連中には仲の良いものがいなかった。だから私は皆と別れると、一人で歩き始めていた。
 それでも、真直ぐ家に帰る気にはなれなかった。なぜなら、最近はこのように外で飲む機会がめったになかったからである。まだ、あわてて帰らなければならない時間でもない。先ほども云ったことだが、仕事のほうはうまくいっていない。おまけにかみさんとも、最近は気持ちがかみ合わなかった。どこの家でもそうなのだろうか? 旦那は給料を持ってくるのが、当たり前のことで、ありがとうとかご苦労さんとかのひとことも云われたことがなかった。おまけに、最近は稼ぎが悪いと、文句まで出る始末だった。どんなに、気持ちをすり減らして仕事をしているかなんて、爪の垢ほども感じていないようだ。今では、息子の面倒は見るものの、私のことはほったらかしと言ってもいいような有様であった。
 だから私は、心の中にストレスがたまっているのを感じていた。多少歌を歌ったくらいでは到底解消されるものではなかった。そうして、一人になってみると、少しばかり現実に引き寄せられて、先行きの不安も蘇ってきた。
 だから、もう少し飲みたいと言う気持ちになったのだと思う。

 結局、私は帰り道に友達と良く行く居酒屋に寄っていた。一応顔は覚えられていたから、そこの女将からは今日は一人ですか珍しいことですねと云われた。私はビールが好きであったが、そこでは酒を頼んだ。なぜなら、単純に酔いたいと思ったからである。

 カウンターには、様々な客がいた。皆楽しそうに飲んでいた。一人で呑んでいるのはわたしだけであった。わびしい気持ちはあったが、同時にどうとでもなれというような、すこし投げやりな気持ちがあった思う。その所為か、酒にはそれほど強くない私のはずが、飲んだほどには酔わなかった。そこでは、どのくらいいたのだろうか、一時間かもう少しくらいだったろうか。私は店を出ることにした。

 酒でほてった身体にはとても気持ちの良い季節の夜だった。微かに風が吹いていた。私は今居た店の喧騒の余韻が残ってはいたが、また一人になったという、ちょっぴり寂しいようなそれでいて一人になったという別の心地よさも同時に感じていたような気がする。
 その時、まだ飲みたいというわけではなかったが、やはりまだ家に帰る気にはなれなかった。まだ、もう少しだけこの夜の街に身を置いておきたい、そう思った。
 それからの私は、あてもなくゆっくりと街を歩き続けていた。さすがに、時間だから街を歩く人の影も少なくなっていた。そうして、そのビルの前を通ったとき、ほんとうに微かだったが、笑い声が聞こえてきた。それは、風に乗って流れてきたようなひどく小さなものだった。だがなぜか、私はその笑い声に惹きつけられた。とにかく、それはひどく楽しそうだったからである。なにが、そんなに楽しいのだろう。そう思いたくなるようなものだった。
 その声に曳かれる様に、私はビルの階段を登り始めていた。二階に上ると廊下があった。人影はなかったがこうこうと灯りがついていた。そうして、右手のドアから声が漏れて来るようだった。
 私はそのドアの前に立った。居酒屋『森』と暖簾がかかっていた。後から思い出してみると、暖簾に木のドアというのも妙な取り合わせだなのだが、そのときはそう思わなかった。ごく自然な取り合わせに感じられていた。
 耳をすますと随分はっきり声が聞こえてきた。笑い声の主は女性達のようであった。私は、その声に誘われるようにドアを開けていた。

 中に入った私は、目を瞠(みは)っていた。まず目に入った正面の夕焼け空の大きなパネルが、まるで本物の空のような臨場感をたたえていたからだ。すこし薄暗い店のなかは、なんといったらいいのか幻想的な雰囲気があって、おそらく照明が効果的に配置されていたのだろうと思う。そうして、雰囲気を感じさせるのが、そこには民芸店かとみまがうくらいの様々な品物が置かれていた。私が特に目を惹きつけられたのは、石油のランプであった。今時もう見ることは出来ないが、子供の頃見た懐かしいものであった。私はその匂いがとても好きだった。その匂いをかぐとなぜかほっとした気持ちになったことを思い出していた。
 目の前にカウンターがあった。こんな時間だと言うのに、店は客でいっぱいだった。だがカウンターの真ん中の椅子が丁度一つ空いていた。
 私がそこに座ると、中の女将がお絞りと突き出しを持ってきた。
「お客さん、何になさいます?」
 そう若くはなかったが、にこにこしてとても愛嬌のある女だった。
「お酒をお願いします」
「料理は如何いたしますか?」
「もう時間が遅いけど、注文しても大丈夫ですか?」
「もちろんですよ」
 わたしは、たしか焼き魚とお新香の付け合せを頼んだような気がした。というのは、急にその頃から酔いが回ってきたような気がする。そこからの記憶は、夢か現実なのかなんとも曖昧になっていった。そういう記憶であった。

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