HOME > 小説の森 > 不思議な酒場 > 四章
四章 赤提灯
私は、妙な気がした。正面の夕焼けがどうしても本物の様に見えてならないのである。余りの不思議さに目をこすってみたが変わらなかった。ぼんやりした頭の中で、私はきっと自分が酔っているのだと感じていた。
そうして、もうひとつ妙なことに気が付いたのである。女将もそうだし、ここに居る客達も、どこかで会った人達のような気がしてならないのである。というよりとても懐かしい感じがするのである。子供の頃、父も母も生きているときの団欒を過ごしたような、安心した気持ちを感じていた。
そうして、私はその居酒屋ですっかり忘れていた懐かしい友達のことを思い出すことになった。
突然、右隣の男が話しかけてきた。まったく初対面のはずなのにやはりそうは感じなかった。小柄な男で、良く日に焼けていて、ちょび髭を生やしていた。
「兄さん、遅かったね」
「そうだね、もっと早く来ようと思っていたんだけど」
そう云った自分が、何でそんな風に応えたのが、不思議だった。口が勝手に動いてしまったようであった。
「なかなか、仕事も大変なようだねえ」
「そうなんですよ、旨くいかない、この世は辛いことばかりですね」
「でもなあ、兄さん辛い思いしているのは、あんただけではないんだぜ」
「それは、そうだろうけど。余りにも辛すぎるよ」
「兄さんの友達に、押元って男がいただろう。あいつは可愛そうな奴だった。そうだろ、もっと生きたかったのにそう出来なかった。あいつは、あんたのことを自分の分まで生きて欲しい思っていたんだ」
そういわれたとき、随分暫く忘れていた押元のことを思い出した。
私は、以前暫く東京の会社に勤めていたことがある。そこの独身寮で、彼と知り合ったのだった。彼とは、一時期職場が同じだったこともあってすぐに仲良くなった。
兎に角、彼は無類の酒好きで、なおかつその酒の飲み方が綺麗だった。
私も、それなりの人生を生きてきて様々な呑み助を見てきたが、彼ほど綺麗な酒の飲み方をする男は見たことがなかった。
飲むと人それぞれ、癖が出るものだが、まあ最悪なのは酒乱だろう。普段は、どちらかというと大人しくいい奴なのに、酒が入るとだんだん話がしつこくなってきて、気が付くと目が据わっている。そうなると、誰彼となく喧嘩を売って、最後は手がつけられなくなる。そうして、後で本人はそのことを良く覚えていないようなのである。
こういう男がいるかと思えば、押元のような男もいる。
大体、彼は普段からひょうひょうとしていて、いつも笑顔を絶やさない男であった。よくよく思い出しても、彼の怒った顔を思い出すことが出来ない。その所為か、仲間内では、あいつは適当な奴だと思われているところがあった。真剣に悩んだり考えたりすることが、あいつはあるのかねと思われていたのである。
パターンは決まっていた。夜の九時を回るとノックをする音がしてドアが開く、まさにのっそりと、という感じで私の部屋の中へ入ってくるのである。そうして、彼はこう云うのであった。
「行こうか?」
大体いつも私は、こう云っていた気がする。
「本当、お前は好きだな。それじゃ行くか」
二人で、連れ立って夜の道を歩いていった。5分ほど歩いていったところに、いつもの赤提灯があった。小さな店で、居酒屋というよりも赤提灯といった方が、ぴったりくる店だった。
その店で、彼から教えてもらったのが『鯵のたたき』だった。
私が北海道にいた頃はまだ、鯵のたたきを食べたことがなかった。当時はまだ、冷凍輸送など整備されていない時期だったからである。
鯵のたたきは、旨い、酒のつまみには最高さ、しかも、刺身としては安い部類だ、なんたって鯵は大衆魚だからな。彼は、そう云ってわたしに教えてくれた。
その店は、年を取ったご夫婦でやっている店だった。それほど、色々な料理があるわけではないが、そこの鯵は、秀逸だった。
鯵は小骨の多い魚だが、そこのご主人は毛抜きをつかってていねいに、小骨を取り除いていた。そのご夫婦とも温和で、優しい方々であった。来ている客も和気藹々と飲んでいるような気の置けない店だった。
押元は、酒を飲んでも全然変わらなかった。そんなことは、ないはずであったが、とにかくにこにこしていて、楽しそうに酒をのんでいた。そのとき、ふとわたしは感じたことがある。こいつには、春風が吹いている。いっしょに話しをしていると、穏やかで楽しかったので、そう思った。
彼とその店で鯵のたたきをつまみに飲んだ思い出は、私の最も楽しかった青春時代の思い出の一つであった。