HOME > 小説の森 > スナック『憩い』へようこそ > 第二話/明日は月の上で
この話は、どこから始めれば良いのだろう。ああそうだ、喫茶店『キャット』のことからにしようか。その店は僕の友達の藤崎と学生時代良く行った店だった。実は、彼も僕もジャズが大好きだったんだ。その店は、ジャズ喫茶とかいうわけではなくて、極く普通のつくりの喫茶店だったんだけど、かかる曲は全てジャズだった。強いていうと、照明が暗めで、そこが唯一ジャズを聴く雰囲気らしいところだった。
階段を上って、扉を開けると正面にカウンターがあるんだ。そうして、右手奥に向かって細長くボックス席が並んでいた。ボックス席の上には、円錐形のフードの灯りがあったが、割と低い位置にあったので、気をつけないと頭をぶつけることがあった。ぶつけても、痛いわけでもないし、どうということはないけど、みっとないことは間違いなかったね。そんな客は何人か見たことがあった。彼女連れだったら、ちょっと様にならなかった。笑いをこらえるのは、ちょっときつかったね。
店には、三人の女性がいた。ママとさゆりと美貴という娘だった。ああ、ママの名前は知らない、二人は後から知ることになったんだ。三人とも、其々個性があったが、なかなか魅力的な女性たちであったことは、間違いない。
ママとさゆりは、女性としては背が高かった、美貴も標準よりは高かったと思う。揃って三人ともスタイルが良かった。確か、店の制服だったのか、紺色だったと思う。もちろんスカートはタイトで、美脚はなかなかのものだった。ああ、これは失敬、つい男なもんで。
ママは、眼鏡をかけていて、それが、黒でちょっと細めのはねあがっているやつさ。めがね美人という言葉が、あるけど、まさにそんな感じがしたね。あれで、鞭でも持てば、完璧だと不謹慎なことを考えてしまうこともあった。もちろん、見た目、ちょっとつんとして、冷たい感じがしたよ。ところが、実際に言葉を交わすと、そんな取り澄ましたところは、全く無くて、思ったよりもずっと明るい人だと思った。当時いくつだったのか、はっきりとは思い出せないけど、三十代の後半というところでは、なかったんじゃないか。
そうして、さゆりという女性は不思議な人だった。とにかく、年がまったく分からなかった。あえていうと、若くは無いけど、ママよりは若いのだろうという、大雑把といえば、ほんと大雑把なことしか想像が付かなかった。当然のことだけど、さゆりと美貴は独身だと思っていた。でも、さゆりは独身にしては、いい年をしている、そのことは感じたね。そうして、黙っているときは、ひどく寂しそうな表情をする女性だった。あとから、気が付いたんだけど、そんなふうに感じたのは、細面で、泣き黒子(ほくろ)が有った所為なのかもしれない。
美貴という娘は、二十前だったよ。すごい、美人だったね。明るくて、笑顔が可愛かった。正直云うと、僕は彼女に気があったんだ。でもね、その店に来ていた若い男は皆、彼女のことを好きだったんじゃないかと思うよ。藤崎?あいつは、どうだったんだろうね、その話はしたことがなかったな。
しょっちゅうとまでは、いかないけれど、僕と藤崎はその店によく足を運んだ。
その店は、好きな曲をリクエスト出来たんだけど、僕たちが席に付くと、何かリクエストがありますか、と聞かれるくらいの馴染み客にはなっていた。
だから、その店のちょっとした、たわいのないことにもいろいろ気づいていた。
まず、カウンターだけど、三人の女性が揃うということは余り無かった。今から思えば、時差勤務をしていたんじゃないかと思う。それと、カウンターに入っているのは、一名で、ママかさゆりだった。だから、もう一人がテーブル係りだったということだろうね。
あるとき、見慣れない男が、カウンターの中に立ってコーヒーを淹(い)れていた。それで、僕たちは、彼がこの店のマスターなのだということを知った。だけど、彼をカウンターの中に見かけたのはその時だけだった。時折、店で見かけたことはあるけど、それはボックス席でだった。ほとんどは、見知らぬ男と談笑していたけど、一人の時もあった。首が太くていかつい感じの男だった。どう、考えてみても、ママとはミスマッチな気がしてならなかった。
そうして、時折、大学のある先輩を見かけることがあった。名前も知らないし、それまで言葉も交わしたことがなかった。でも、顔は見知っていたから、目礼は交わすようになったんだ。三人組でいることが多かったけど、一人で来ていることもあったね。一人のときは、カウンターに座っていた。
ある時、大学の食堂でたまたま、同じテーブルについたことがあったんだ。そうして、その先輩が四年目の浅井という先輩であることを知った。当時の私達は二年目だった。
その後、当時のこのスナックで、浅井さんとばったり会って、それからは、飲ませてもらったり、結構仲良くしてもらった。
その事件が起きたのは、夏が終わって、秋が始まろうとしているときだったと思う。
その日は日曜だった。下宿のおじさんが、電話が入っていると呼びに来た。昨日は、藤崎とさんざん飲んだから、僕はまだ、頭ががんがんしていた。
「機械科の、佐倉だけど分かるかい?」
僕は、ひどく驚いた。どうしてって?勿論彼の顔は、知っていたけど、科も違うし、親しく話をする間柄ではまったくなかったんだ。だから、電話をしてくるなんて、考えもつかないことだった。
「ああ、わかるけど、突然どういうことだい?」
「君と、話したいという人が居るんだけど、悪いけど出てきてもらえないだろうか?」
僕は、まだはっきりしない頭だったけど、妙な話だと思った。それでも、とりあえずどこに行けば良いのか聞いてみた。
「喫茶店の『キャット』なんだけど、知っているだろう?」
「ああそこなら、もちろん知っているよ、じゃ今から行くから」
「じゃあ、待っているから」
話は、それで終わった。
正直、僕はおかしくは思ったんだけど、でも、電話では埒があきそうに無いと思った。『キャット』なら知っている店だから、安心感があったんだ。それに、なんだろうという、好奇心を抑えることはできなかった。僕の、下宿からは、そこまで歩いて10分ちょっとであった。
扉を開けて、暗いボックス席に目を凝らした。佐倉がこちら向きに座っていた。そうして彼の向いには一人の男が座っていた。佐倉は、僕を見ると手を上げた。
僕は、彼のところへ向かった。佐倉は立ち上がると、僕にそこに座るよう云った。僕は、向かいの席の男を見て、驚いた。ここの店のマスターだったから。
「じゃマスター、僕は、これで帰りますから。悪いな設楽」
佐倉はそうやって、僕に手を上げると、店から出て行った。僕は、一人残されることは、考えていなかったから、幾分分からない
不安な気持ちになった。
「やあ、ごくろうさん、設楽君っていうんだね。ちょっと、聞かせてもらいたいことがあって、来てもらったんだ」
そういうと、灰皿の煙草をもみ潰した。
「早速だけど。浅井君とは親しいんだって?」
「先輩ですから、そんな親しいというほどではありませんが、街で会ったら、一緒に飲んだりすることはありますが」
「最近、どこかに行くようなことは、云ってなかったかな?」
「いいや、別に聞いていません。というよりそうですね、最近先輩と会っていないというか、姿を見かけてません」
「そうか、ところで、実家はどこだか聞いているかい」
「確か、B市の近くだと聞いたことがありますが」
「そうか、それは、俺も聞いたことだが、他に何か知っていることはないかい?」
「いいえ、それより、いったい、浅井さんがどうかしたのですか?」
「知らないんなら、いいんだ。悪かったね。もう帰っていいよ」
もう少し、いろんなことを聞かれて話をしたような気もするが、思い出せるのはそんなこと位であった。
僕は、苦いコーヒーを飲み下すと、席を立った。後味の悪い気分だった。マスターのものの言い方は、詰問調であった。何で、佐倉は自分を呼び出したりしたんだ。道を歩きながら、僕はマスターの、何か嫌な顔を見てしまったと思った。
つぎの日、僕は大学で佐倉に問いただした。
「すまなかった、マスターとはマージャン仲間だったもので、俺も突然呼び出されてさ、そうして、お前を知っているかと聞かれて、電話をさせられたんだ」
「いったい、何があったんだ?」
「浅井さんを、しばらく前から、見ていないんだ。そうして、店の女の人が居なくなったらしい。よくは分からないが、そのことらしい」
そういえば、佐倉も浅井先輩も、寮生であった。そこが、二人の接点だったのだろう。
僕は、思いもかけないその話しを聞いてひどく驚いた。確かに暫く前から、浅井先輩の姿を見かけなかった。そうして、さゆりも確かに、いつからか店に居なかった。二人の間に何かあったのだろうか、僕には、訳の分からないことばかりであった。
だが、それからしばらくして、この店に来て、真由美ママから、ことの経緯(いきさつ)を聞くことになった。
「ああ、そのことかい。二人は駆け落ちをしたんだ。駆け落ちというのも、変なんだけど、まあそんなようなものさ」
やっぱり、そうなのかとは思ったが、納得がいかなかった。
「なんだか、さっぱり意味が分からないんだ?」
「そうだろうね、妙な話さ。そもそもは、あのマスターはとんでもない男だったのさ」
それから、ママに聞いた話は、思いもかけない内容だった。
さゆりって子は知っているね。彼女実は、昔水商売をしていたんだ。一時期、わたしは同じ店で働いたことがあるの、大人しい子だったわ。わたし、こんな性格でしょ、だから、姉さんのように慕ってくれたわ。だから、彼女のことを知っているのよ。それで、一度結婚したんだけど、相手が悪かったのね、酒癖は悪いわ、それに暴力も振るったそうよ。だから、結局は別れたんだけど、そのとき、間にはいって口利きしたのが、あの男だったのさ。ああ、マスターの名前ね、前原よ。その後、彼女を引き取って、店で働くようにしたらしいわ。ママには子供も居なかったし、広い家だったから同居させたんだって。
ところが、マスターは、さゆりに手を出したらしいの。口の悪い連中は本妻と二号が同居しているなんてと、陰口を叩くものもいたわ。なに、ママがそのことを、知らなかったのかって?そんな、ことはないわ。関係が不思議?男と女のことなんて、甘ちゃんのあんたには、まだまだ分からないわ。
僕には、さゆりがそんな女だったとは、どうしても信じられなかった。だけど、逆に彼女のあの陰のある表情は、そういうことの所為だったのかとも考えた。
それで、浅井君よね。准君はもちろん、知っているね。『キャット』でも、勿論見かけたよね。あの、二人って見ているとなんか妙な感じがしない。まるで、仲の良い姉さんと弟という感じがしない?もちろん、赤の他人だけどね。ところが、二人に恋心が、芽生え始めたのね、恋は思案の外というけれど、不思議なものね。先に、火がついたのは、さゆりの方みたいよ、彼女の方の境遇が境遇だけに、燃え始めたら、その炎は狂おしいものよ。結局二人は、結ばれてしまったの。浅井君は、とても気持ちの優しい男よね。もちろん、彼女の全てのことを、知って彼女のことを愛したんだと思うわ。
なんで、わたしが、そこまで知っているのかって?実は、二人が居なくなる前に、浅井君が店に来たのよ。ママに相談に乗ってほしいことがあると云ってたんだけど、このことだったのよ。
マスターは怖い男だって、だから、二人でどこかに駆け落ちをするつもりだと、わたしははろくなアドバイスは出来ないけど、こうなったら、行く所までいってみるしか、しょうがないでしょうと云ってやったの。実家のほうに身を寄せるつもりだと云っていたわ。
だけど、結局マスターに見つけられたらしいのよ。あんたにも、いろいろ聞いたらしいけど、執念深い男よ。とにかく彼は海千山千よ。うちの、従業員を勝手に連れ出しただとか、学生さんの将来ある身で、疵が付いてもいけないとか、脅したり、すかしたり、おまけに、実家の方にも色んなことを云ったらしいよ。
そんなことになって、さゆりは、浅井のことを、考えたのだと思うわ、泣く泣く、マスターと一緒に帰ってきたということよ。
なに、納得がいかないって。仮に、二人が結婚するといったとしても、片やまだ学生の身でしょ、女といえばずっと年上で、仕事のことでも、世間的にはなかなか難しい場面よね。おまけにヤーさんまがいの、訳のわからない男まで飛び込んでくれば、絶対うまくゆくはずのない話よ。それは、さゆりは良くわかっていたはずだわ。
それから、卒業する前に一度だけ、浅井君が飲みに来たわ。やっぱり、別人のように元気がなかった。彼は、こう云っていたわ。
「僕は、絶対彼女を、守るつもりでいた。だから、彼女が自分から、戻ると言い出したときには、本当に奈落の底へ、つき落とされた感じがした。絶望という言葉はこういうことをいうのだなと、つくづく思った。そうして、やはり、マスターとは離れがたいところがあるのかと、嫉妬の気持ちにさいなまれたと」
それで、わたしは、云ってやったのさ。馬鹿いってんじゃないよ、さゆりは、あんたのことを考えてそうしたんだよ、そんなこと位、分かってあげなさいよ。彼は、それは、後から分かったと云っていた。さゆりから、手紙が来たそうね。それには、こう書いてあったそうだよ。
「こんな、ことになってごめんなさい。でもね、私は帰りたくて帰るわけじゃないことは、分かってほしいの。浅井さんと、一緒に過ごした、この数日のこと、私の人生の中で、本当に本当にこんな幸せな時間は、ありませんでした。あまりにも、幸せすぎて、夢を見ているにも思いました。でも、夢の時間は、そんなに長くは続かないんですね。私は、帰らなければいけないんだと、自分に言い聞かせました。でも、一つだけ、どうしても信じて欲しいことがあるんです。それは、私が、心の底から本当にあなたのことが好きだったということ」
ママが、話し終わると、僕たちは、暫く沈黙していた。ママは、ママの思いがあったと思う。当時の僕は僕で、その彼女の気持ちの切なさを、自分なりに感じ取っていた。
そうして、その話しを聞いて、僕はある場面を思い出していた。二人が、いなくなる少し前にたまたまこの店で、浅井先輩と一緒になった。
浅井先輩は、いつもの仲間と、三人で来ていた。僕と、藤崎が店に入ると、嬉しそうな顔で、云った。
「よう、ここに来て、飲めよ」
僕は、浅井先輩の隣に座った。
「先輩とここで会うのも久しぶりですね」
「そうだな、そういえば、この前は?『キャット』で会って以来か」
そんな、挨拶代わりの話から、始まって、いろんなことを話したと思う。先輩は、どちらかというと静かな酒の飲み方をする男だったが、いつもよりは、饒舌だった。
しばらくして、先輩は、例によってリクエストをした。アダモであった。
アダモといえば、『ブルージーンと皮ジャンパー』と『雪が降る』が有名だが、決して明るい歌ではない。でも、独特の哀愁を帯びた彼の歌声は、僕も好きだった。
そうして、ある曲がかかったとき、突然先輩は僕にこう云った。
「設楽、この曲を知っているか?」
「さあ、もちろん聞いたことは、ありますが、曲名は、分からないです」
「『明日は月の上で』という曲さ、たしか恋人達が明日月の上で会おうというような意味のとても素敵な歌さ。僕はこの曲がとても好きなんだ」
僕は、その先輩のひとことで、この曲がすっかり気に入った。そうして、アダモにしては、珍しく明るくロマンチックなこの歌にとても魅せられてしまった。
そうして、後になってから、どうして先輩は突然、僕にそう云ったのだろうと考えた。その、恋人達というのは、先輩とさゆりのことではなかったのか、そう思えてならない。
そうして、岬ママね、ずっと後になってから、思い出したことが一つあったんだ。『キャット』で見た光景だよ。
あの事件の大分前だったと思う。例によって、僕と、藤崎と二人でキャットに行った。そのとき、浅井先輩が一人でカウンターに座っていた。背中越しだから、僕たちには気づかなかった。そうして、カウンターの中には、さゆりがいた。
そのとき、二人はなにか、話していたようだった。先輩が何か可笑しいことでも話したのだと思う、さゆりが笑った。
さゆりは、いつもどちらかというと、暗い顔をしていた。だから、めったに笑ったことはなかったような気がする。
でも、その時、彼女はとても明るくて、幸せそうな笑顔をしていた。はじけるような、表情だった、そんな印象が残っている。
そのとき、二人は、恋に陥り始めていたのだと、僕は後になってから気が付いた。
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