HOME > 小説の森 > スナック『憩い』へようこそ > 第三話/二人
「ねえ、設楽さん。その後、さゆりさんは、また元通り店で働きはじめたの?」
「そうらしいよ、実はそんなことがあったから、僕たちは、もうその店には行かなくなってしまった。だから、その後のことはよく分からないんだ。おまけに、ママも知っていると思うけど、再開発だとかであの辺りの店も皆無くなってしまった。それは、僕達が卒業してからのことになるけどね」
「浅井さんは?」
「それが、それから浅井さんを見かけた記憶がないんだ。卒業が近くなると、四年目はほとんど講義もなくなるから、それで、顔を合わすことがなかったのだと思うけど、卒業したのは間違いないんだ。それと、後で知ったことだけど、あのマスターは美貴にも手を出したということさ。噂では彼女はあの店を止めたそうだ」
「なんて、マスターだろうね」
「いまごろ、どこで、どうしているのかと思うよ」
「浅井さんは、卒業してからどうしたのかしら?」
「本州の企業に就職したらしい、でもその後のことは、僕も良く知らない。北海道に戻って来てるかもしれないとは、何かで聞いたような気がするけどね」
「そう、随分時が経っているものね」
「そうだね」
そういうと、設楽は口をつぐんだ。こんな話しをしたから、すっかり昔の感傷に浸っているのかもしれなかった。客は、相変わらず来なかった。さっき、トイレに行った時に、ちょっと外を見た。ようやく、外の風は少し収まって来ていた。
「ねえ、設楽さん。三つ目の話を聞かせてよ」
「えっ」
「だって、この店で三つの忘れられない、思い出があるって云ってたじゃない」
「ああそうか、でも、いい時間になってしまったし、最後の話は悲しすぎるんだ。だから、この辺で、しめにしようかと思っていたところさ」
「そんなこと云わないでよ。どうしても、聞きたいの。その話しをしたら、ねえ、よかったら今晩あたしのところに、泊らない?」
当然のことながら、設楽はひどく驚いた顔をした。
「おいおい、ママ、冗談だろう。純情な男をびっくりさせるなよ」
でも、設楽は真顔になると、云った。
「本気か?」
「本気よ、でも、あたしじゃ、嫌?」
「そんなことは、ないけど、なぜ?」
「設楽さんが、悪いのよ。あたしは、独り身なの、こんな話しを聞いてしまって、吹雪の夜だしちょっと寂しくなってしまったの。でも、信じて。あたしは、軽い女じゃないから。自分から云うのおかしいけど、ほんとに初めてだから、こんなこと云ったの」
あたしは、自分でも、何をいってんだろうと、正直思ったね。やっぱり、その話の所為だったんだろうと、思うよ。
たしかに、設楽は良い男で、どこか惹きつけられるところがあったのは事実よ。でも、そうだからって、いつものあたしなら、そんなこと云うもんかね。やっぱり、あたしは、どうかしていたんだと思うよ。でも、云ってしまった言葉って、そうそう引っ込めるわけにはいかないよ。あたしは、そのくらいの意地は持っていたよ。
設楽は、もう一度云ったよ。
「本当に良いのかい?」
あたしは、彼の目をみて、云ったわ。
「そうよ」
それから、彼は、グラスの酒を飲むと。しばらく、何か考え込むようだったわ。それから、また話し始めたわ。
僕が大学最後の年で、秋も深まってきた頃だった。その時は珍しく、藤崎と一緒ではなかった。誰とだったかははっきり覚えていないが、三人でこの店に来ていた。その頃は、ちょうど卒研の準備だとか、いろいろ忙しい時期だったと思うけど、かえってちょくちょく飲みには出ていた。
そのころには店の方の勢いにも少しずつ陰りが出てきていたね。以前はいつ行っても、それなりの客がいて、盛り上がっていたのに、いつの間にかごく普通の店になっていた。理由の一つは、店に来る女の子が少なくなってきたのが、大きかったと思うな。なぜって?それは、いろいろあったんだけど、話せば長くなる。だから、その話はとりあえず置いとくことにする。
でも、その日は、週末だったこともあるんだろうけど、珍しく盛況だった。僕達が入ると、座る席が無くなっていたんだ。
そのうち、僕は妙なことに気が付いた。僕の隣に座っている、カップルなんだけど。確かに見た目が変わっていたけど、雰囲気もまるで周囲と異なっていた。二人のいるところだけが、海の底のように、ひんやりしていて、なにか別の世界のように感じたんだな。
この店の、カウンターは、L形になっている。しかし、もっと正確に云うならクランクになっていると云ったらいいんだろう。扉を開けて正面がL形の長い辺にあたる。そうして、正面ちょっと左側のところがL形の曲がり角になっている。そうして、その曲がり角から入り口に向かってL形の短辺があって、その終わりからなだらかに左側の壁までカウンターが延びているという按配であった。
二人は、そのL形のコーナーに座っていた。
女性は、ものすごく綺麗な人だったという記憶がある。そうして、着ているものが、そういうものに疎い僕でさえそう思うほど、上質なものだった。年は、三十かちょっと過ぎた位だろうと思った。どこか、良家の奥様という感じだった。男は、彼女にまったく似つかわしくないかっこうをしていた。Gパンで、上は何といったらいいのだろう、民族衣装ぽいTシャツとベストといえば、一番イメージが近いかもしれない。髪は長くして、後ろで束ねていた。年は、彼女と同じか、もしかしたら少し若かったのかもしれない。彼のその印象は、要するにミュージシャンかあるいは、所謂(いわゆる)芸術家という様子だった。
僕は、その時、店に行くまでに結構飲んでいたから、それほどきっちりとした記憶ではなかった。それでも、その二人の印象があまりに強くて、ずっと忘れることはなかった。
一目見ただけで、訳ありの二人だということは感じた。普通であれば、訳ありであろうがなんであろうが、好きな人と一緒にいるのであれば、楽しそうな表情を見せてよいはずだった。でも、二人はとても悲しそうに見えた。だから、僕は、飲みながら二人の会話に、聞き耳をたててしまっていた。二人の声は、ささやくように小さかった。
「とても、楽しかったわね」
「ああ、そうだね」
「ねえ、初めて私を見たとき、どう思ったの?」
「とても、綺麗な人だと思った。でも、ちょっと、近寄りがたいところがあったよ」
「どうして?」
「すこしだけ、つんとしていた」
「それは、初対面だからあたりまえでしょ。でも、そうでもなかったでしょ?」
「そうだね、すぐ、印象が変わったよ。君は、思ったより楽しい人だった」
「それより、僕は、啓治さんを最初怖い人だと思ったわ」
「なんで?」
「だって、いつも気難しい顔をしていたから」
「僕は、不器用だから。先生の威厳を保つにはそのほうが良いんだと思ってた」
「馬鹿ね、でも私は、すぐ優しい人だって分かったわ」
「どうして、君が、怪我をしたとき心配したから」
「そうかもしれないわ」
「その時だ、僕は、君を好きになっていると、初めて気が付いたのは」
「そう」
彼女は、そこで、ため息をついた。
「私も、啓治さんを、意識し始めたのは、もしかしたら、その時だったのかもしれないわ」
「それで、僕が食あたりで、教室を休んだとき、見舞いに来てくれたんだね」
「私、おかゆを作ってあげたわ。なんにも、なかったね。でも、梅干があった」
「僕、あんなおいしい、おかゆ食べたことなかったよ。あの仄かな塩味が今でも忘れられない。そうして、梅干があんなに、美味しく感じたのも初めてだった」
「ねえ、あの時が、私たちの最高の時じゃなかったのかしら」
「そうだね、僕もそう思う。あんな。幸せな時はもう二度とないだろうと思う」
「そうね」
二人は、顔を見合わせて微笑んだようだった。それが、僕の見た、二人の唯一の明るい顔だった。
「別れたくないわ」
「それは、僕も同じだ」
「でも、どうにも、ならないね」
「そう、どうにも、ならない」
その言葉どおり、どうしようもないほど二人の表情は暗い、僕にはそう感じられた。
それからの、二人の会話の僕の記憶がない。ということは、おそらく、二人は口をつぐんだのだと思う。もしかしたら、そこで、僕が酔っ払ってしまったのかもしれない。気が付いた時には、二人は、居なくなっていた。そうして間もなく、そこには違う客が座った。
それから、一月も経たなかったと思う、僕は藤崎とこの店に飲みに来ていた。客は少なかった。僕と藤崎が卒業したら更に客が減ることになるんだろうな。僕たちは、そんな勝手なことを話していた。暫くしてから、真由美ママが僕たちのところに来た。初めは、大学のこととか、街のことを話していたが、僕から、気になっていた二人のことを訪ねた。
「ああ、あの二人ね。あのとき准ちゃん居たんだ」
「そうだよ?それより、二人はどういう間柄だったんだい」
「准ちゃんも、変わったカップルだと思ったんでしょ。あの男の人は、坂下啓治といって、木彫りの仕事をしていたの。それ以外にも、絵を描いたり、織物をつくったり色んなことをやっていたの。そうね、芸術家というところかしら。でも、やっぱり一番は木彫りで、中央の大会では何度も賞をとっていて、期待の新鋭って云われていた人なのよ」
「あの女の人は?」
「実は、××土建の社長夫人よ、名前は朋子といったわ」
××土建といえば、地元では知らぬ者のいないトップレベルの企業であった。
「二人は、ただの間柄ではなかったよね、どうして知り合ったんだろう?」
「市民カルチャーセンターで木彫りが取り上げられて、その講師に坂下さんが頼まれたの。そうして、その生徒の中に彼女が居たということよ。坂下って男は、不幸な男でね、小さい頃両親を亡くして、親類の家で育てられたんだけど、あちこち回されて、随分苦労をしたようだわ。おそらく、母親の愛情にはすごく、飢えていたんだと思うわ。彼女ね、母性的なところがあったものね。だから惹かれたのかもしれないわ。それであの朋子さんはね、とても美人でしょ、年の離れた社長に請われて、嫁なったのだけど、結婚生活は幸せじゃなかったみたいよ」
「どうして?」
「いろいろあったんだろうけど、やっぱり女遊びよね。若い頃から、結構遊び人だったようだけれど、結婚してもそれがさっぱり収まらなかったそうよ」
「そんな、二人が出会って、恋に落ちたということですか?」
「そうよね、世を忍ぶ仲になってしまったのね」
「ママは前から、二人を知っていたの?」
「いいえ、あの前に、教室の打ち上げみたいなことがあって、そのときこの店に大勢で見えたの。それが最初だったの。その時は、二人はとても幸せそうだったわ。准君が見たのは、二度目でそうして最後だったわ」
「そうなんだ」
「実は、ついこの間、二人は亡くなったの」
「えっ、どういうこと」
「心中したんだよ」
僕は、衝撃を受けた。まさかとは、思った。そんな雰囲気を感じさせることろは確かに無いことは無かったが、実際にそう云われると、正直なところ信じられない思いだった。
「信じられないよ」
「あの時、二人はどん詰まりにきていたのね。二人の仲を、どうやら彼女の旦那が気が付いたらしいのよ。彼女は、とても憔悴していて、啓治さんは、それで責任を感じていたようね」
「それで、心中?」
当時のわたしは、どうしてもその気持ちを、理解することはできなかった。だた、二人が暗い顔をしていたことだけは、妙に脳裏に焼きついている。
ママは、言葉を続けた。
「死を美しく考える人もいるようだけど、決してそんなことはないよ。二人は、死んで一緒になろうとしたのかもしれない。でもね、それはできない相談なんだよ。なぜって?二人は睡眠薬自殺をしたんだけど、発見されたときは、二人は離れた位置にいたそうだ。良く考えてごらん、あれほど好きあった二人なのに、なんで手をとりあっていなかったと思う、分かるかい?」
僕は、何でママがそんなことを、云い出したのか不思議に思った。
「いいや、なぜだろう」
「睡眠薬は、眠るように死ねると思っているかもしれないけど、最後は苦しむんだ。なぜって、身体は生きようとするからね。だから、最初は手を取り合っていた二人も、そんなふうになったのだとわたしは思っているよ。結局は死んだっていっしょにはなれないんだ」
「でも、ふたりには、そうするしか、方法がなかったのだよね?」
「いいや、わたしは、そうは思わないよ」
「それは、どんなふうに?」
「簡単さ、生きることさ」
「よく分からない」
「どんなに辛くても、別れても、生きることさ。全てを失った気持ちになるかもしれないけど、思い出だけは残る。そうでしょ」
「思い出が?」
「わたしは、よく思うことがあるんだよ。人間ってのは、思い出を作るために生きているような気がするんだ。いつか、准君がこのわたしの言葉を、思い出す時がくるかもしれない。その時はわたしが、生きていたという証になるんじゃない?」
僕が、真由美ママのこの言葉を思い出したのは、何年ぶりいや何十年振りのことになるだろう。そうして、僕は、ひどく不思議な気分になっていた。
当時のわたしは、そのママの言葉の意味が、よく理解できなかった。だが、いまはひどく共感している自分を感じていた。
そうして、実際ママはもういなかったのだ。
「ねえ、設楽さん、真由美ママとは何もなかったの?」
「正直、変なことになりそうなことはあったけど、そうはならなかったよ」
「そうなんだ、もしかしたら、そのママはあなたのことが、好きだったのかもしれないと、ふと、そんなことを考えたものだから。私が、あなたに惹かれたのも、同じようなことかもしれないわね」
設楽は、不思議なめぐりあわせを感じていた。岬ママは、正直なところすごい美人だとは思わないが、とても心惹かれるところがあった。真由美ママのように、気持ちにパリッとしたところもあるが、だがもっと穏やかで、優しい感じがあった。どうなるか、成行に任せてみようと腹は決まっていた。そろそろ、店を閉めると、岬が云った。
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