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設楽は、目が覚めると、ああそうだったと思い出した。カーテンの隙間から差し込む光が、ベッドの上をよぎっていた。岬ママの姿は隣になかった。設楽は、暫く昨夜のことを反芻(はんすう)していた。久方ぶりだった、女にときめいたのは。
隣の部屋からテレビの音が漏れてきた。それにコーヒーの香りがしていた。彼女は、ずっと早く起きたのだろう。
ドアをあけると、陽の光が目に飛び込んできた。こじんまりとしていたが、ひどくすっきりしている部屋だった。女性の部屋というものは、一般的に物が多いが、ここはちがった。唯一、窓際の観葉植物の鉢がいくつか目立ったくらいだった。
「やあ、おはよう」
「おはよう、よく眠れた?」
「ああ、とても。疲れていたんだと思う。君に責められたからね」
「あら、なんてことをいうのかしら」
そういうと、彼女は横目で少し、私をにらんだ。その仕草を、私はとても可愛く思った。
「使ってない、歯ブラシ出しといたから、顔を洗ってきたら」
「ありがとう」
私は、洗面所の鏡に向かって自分の顔をしげしげと眺めた。どうして、彼女とこんなことになってしまったのだろう、不思議な気持ちだった。そうして、女房の顔が思い出されて幾分後ろめたい気持ちを感じた。鏡の顔に向かってお前は悪い奴だと云ってみた。そうして、その鏡の顔は、舌を出すと食えないしかめ面をしておどけていた。
「いい部屋だね」
「ありがとう、あたし道楽はしないけど部屋にはこだわりがあって、この部屋をみつけるのは随分苦労したの」
「そうか、快適な一人暮らしというわけか」
「せめて、ひとりだから気持ちのよい空間に住みたいとおもったの」
「ふーん、なるほどね」
「でも、たまには一人が寂しいと思うことも、たまにはあるわ。でもね、この部屋で男の人を泊めたのは初めてだから」
「なんか、責任感じるな。信じるよ」
「いいえ、ただ云っておきたかっただけ」
私は、窓際に立った。
「眺めも良いね。ここは三階なんだ」
「そうよ、余り高いところは好きじゃなかったの、この位の高さが私の気持ちには丁度良いの。ある程度高いところが、気持ちが広々するでしょ、でも地上が手に取るように見えるところがいいの、分かる?」
「なるほどね、分かるような気がするよ。下に公園が見えるね」
「そうよ、なにもすることがない時、公園で遊んでいる子供たちを見るのが好きなの」
「子供が好きなの?」
「嫌いではないと思うわ」
「それじゃ、子供が欲しい?」
「その、質問はいじわるね」
「ああ、悪かった、ごめんね」
「いいわよ」
「ねえ、朝食にする?」
「いいね」
「あなたの年なら、ご飯に味噌汁がいいんだろうと思うんだけど、一人暮らしのあたしは手の込んだ料理はしないの。悪いけど、コーヒーにトーストでがまんして」
「いや、僕も朝はいつも軽いんだ。それにまだ少し酒が残っているからパンとコーヒーは丁度良いよ」
「ちょっと、待っててね」
彼女が用意してくれたものは、スクランブルエッグとベーコン焼きと野菜サラダだった。
私と彼女は、テーブルに向かい合って座った。
「何か、不思議だね」
「何が?」
「こうやって、向き合って座っていることさ」
「そうかもね」
「ひとつ聞いていい?」
「いいわよ」
「何で僕を誘ったんだい?」
「正直なところ、私にも分からないの。成行でしょ」
「そうかもしれないな」
「ねえ、今日も飲みに出るんでしょ?」
「そうだよ、藤崎と飲むためにこの街に来たようなものだから」
「そう、友達っていいわね。今晩うちの店に来るの?」
「来て欲しいの?」
「分からないわ、売り上げから云えば来て欲しいけど。藤崎さんといっしょでしょ、正直なところは自分でも微妙な気持ちよ」
「最後の話で、あっただろう、思い出が大切だって。本当、ママを好きだよ。でもこのまま、ずるずるしたらどうなんだろう?」
「ねえ、奥さんとは仲がいいの?」
「悪くはないけども、良くもない、世間一般さ」
「そう」
「水商売は長いの?」
「そうよ。実は私の母も水商売をしていたの。あたしは、この商売をするつもりはなかったんだけど、気が付いたらこういうことになっていたの」
「結婚は?」
「好きな男と、同棲したけど結局別れたの。そんなことより、あなたの話をして」
彼女はテーブルに身を乗り出すと、私の目を見た。
「僕の話なんかつまらないよ。大学卒業して、今の会社一筋さ。社内恋愛してゴールイン。世のご時世で早期退社となったけど、再就職も決まったから。まずまずのサラリーマン人生というところさ」
「この街には、一人で来たんでしょ」
「ああ、会社の長期休暇を使って来たんだ。家族にも一応声を掛けてみたけど、つれないものさ。ご自由にということだった。かみさんも息子もそれぞれ忙しいようだった。まあ、それでも僕としては、自由でよかったけどね」
「そのおかげで、ここにいるのかも」
そう云うと、彼女は少し笑った。その時、初めて私は彼女の顔をちゃんと見たような気がした。夜の化粧を落とした彼女の顔はごく普通の風情だった。近所の奥さんといっても何の疑問もなかったであろう。意外に目が綺麗だった。
それからの話は、他愛もないことだった。テレビは見るかとか、どんな番組が好きだとかそんな話だった。思わぬところで、思わぬ人とおしゃべりをすることは、とても新鮮で楽しいことだった。、
あたしは、考えていた。もし結婚していたら、こうやって向き合って、他愛のないことなど話をしていたんだろうかと。だが、友人の話を聞く限りでは、あまり話をすることがないというのも多かったね。結局あたしが、この人を好きだからこうしていることが幸せに感じるのだろう。でもね、愛が褪(さ)めたらどうなんだろう。そこまで考えてあたしは、しょうもないことを考えている自分をわらった。一ついえることは、今は幸せだし、このことをきっと忘れないということさ。
男と同棲したのは、若い頃だった。好き合って一緒になったけど、若かったこともあってお互いの我侭(わがまま)がすぐにぶつかり合ったんだね。二人の生活は一年ももたなかったよ。彼とは話らしい話しをした記憶がなかったね。でもね、設楽さんはやさしくて気持ちの良い男だと、あたしは思った。だから、話しをしているのが楽しかったのさ。
時がたつのは早い。もうすぐ昼になろうとしていた。
「そろそろ、帰るよ」
「えっ、もう帰るの?」
そう云うと、彼女は少し寂しそうな顔をした。
「だって、ずっと居るわけにはいかないだろう」
「そうよね。ところでいつこの街を発つの」
「明日なんだ」
「そうなんだ、またいつかこの街に来る?」
「そんなことが、あれば必ず君に会いに来るよ」
「約束よ」
「ああ、約束だ」
「タクシー呼ぶの?」
「いいや、街までどの位かかるの」
「結構遠いわよ、歩くと二十分以上はかかるわ」
「そうか、街の風に当たりながら歩いてみたいんだ」
私は、立ち上がった。すると彼女は近づいて来て、別れのキスをといった。
私は、軽くキスをするつもりだったが、彼女は少し行儀の悪いキスをした。
私は、云った。
「おいおい」
「いいでしょ、お別れなんだから」
私は、彼女がいとおしくなって思わず身体を抱きしめた。
「それじゃ、さようなら」
「さようなら、またね」
彼女は、片手を上げた。すこし泣きそうな顔をしていた。
外にでると、私はドアを閉めた。マンションの重い鉄のドアの閉まる鈍い音が辺りに響いた。
あたしは、鉄のドアの閉まる音を切ない思いで聞いていた。会うは別れの初めというけど、別れというものはいつも寂しい。そうして、残される者には殊更に感じられるよねえ。あたしは、ドアを開けて彼の後姿を見送ることにした。
白い雪景色の中を、彼は歩いていた。時折吹く風で粉雪が舞い上がった。そうして、不意にこちらを振り向いた。あたしに気が付いたようだった。右手を上げて大きく振った。あたしも、手を振って応えた。それから彼は、細い踏みつけ道を真直ぐ歩いていったよ。あたしは、彼の紺色のトレンチコートの背中が建物の陰に見えなくなるまでじっと立っていた。
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