HOME > 小説の森 > 居酒屋 > 第一話  不思議な男
「それでは、支店長からご挨拶をいただきたいと思います」
 私は立ち上がると、結局のところあたりさわりのない、おきまりの挨拶をすることしか出来なかった。会社の業績は、現状かなり厳しいが、我々としてはなんとか最善をつくして頑張らなければならない。今日は、日ごろの憂さを忘れて、忘年会らしく楽しくやろうというような内容であった。
 乾杯も終わって、ひとしきり座もさばけたところで、沢口が私のところに来た。
 いっぱいどうぞと勧められた。先日、散々やりあった部下であった。
「今回も、やはりだめでしょうかね?」
 そういうと、沢口は私の目をじっと見つめた。
 賞与のことを云っているのは、分っていた。私はあいまいな返事で言葉で濁したから、話の接ぎ穂が無くなってすこしの間気まずい沈黙が流れた。それから、彼は二言三言当たり障りの無い会話を交わすと、私の前を離れ他の同僚に酒を注ぎに回っていった。
 今の時期に、査定の指示が来ていないということは、賞与はほぼ無理だということを、社員の誰もが感じているはずであった。これで、連続四回になる。いい加減にしてほしいと思っているのは、彼らだけではないのだ。
 だが、社長がこちらに来て、皆の前で頭を下げたのは最初の一回目だけであった。それからは、この気の重い仕事は私の役目になっていた。
 年の瀬を控えて、いくら望みが薄いとはいっても、当てにしたくなるのが人情であろう。のっぴきならない、事情をかかえている者もいるに違いなかった。だが、それを決めるのは、自分ではなく本社であった。
 毎度のことに、はっきりしない本社の態度に、部下たちの不満が爆発した。そして、その矛先は私に向かって来た。
 しかし、私の立場としては彼らの話を聞いてやることは出来ても、同調することは出来ない相談であった。
 確かに私は、本社と直接話しをするチャンネルを持ってはいた。だが、あくまでも私は一従業員であって、経営の参画者ではなかった。
 その本質のところが、部下達には理解できないのであろうかと私は苦々しい思いに捕らわれていた。だが、彼らにとってはそれは分かる必要のないことかもしれなかった。私は責められたが、それで状況が好転するわけでもなく、大体そんな虫の良い話などあろうはずがなかった。それでも、彼らの、気持ちの持って行き先は私しか無いということは、私にとって理不尽な現実であった。
 しかし、私の忍耐もそろそろ限界であると、自分ではそう感じていた。

「今回も、賞与を出せない」と、社長から連絡があったのは、昨日のことであった。
 今日の忘年会を控えているから、発表を月曜日の朝にしてもらうこと、それが唯一私にできることであった。
 家に帰れば、妻からは責められた。妻の言い分はこうであった。
「会社は会社の都合があるんでしょ、でも社員には社員のつごうだってあるわ。賞与といったって給与の一部みたいなものだし、実際ローンだって組んであるんだから、どうしてくれるの。業績が悪いから、額が少ないというのなら、それはそれでまだ分かるけど、ゼロっていったいなによ、それじゃ社員の都合はどうでも良いってこと。それじゃ、経営者の責任は全く無いってこと。あなたは、こちらの責任者だから、なんとかして頂戴」
 そう云って、矢継ぎ早に妻は私を責めた。
 正論とは思う、私も気持ちは同じであった。
「だけど、そうはならないんだ」
 私はそう妻に云うしかなかった。
 もちろん、最悪の雰囲気であった。

 大して盛り上がることのなかった、忘年会が終わると店の外に出た。いつもなら、すぐ皆で二次会へということになるのだが、やはりというべきか、今回はそんな流れにはならなかった。そこそこの挨拶を交わして、おもいおもいに散っていくようであった。
 空虚感があった。
 彼らには、厳しい現実があるはずだった、とっても浮かれる気分にはなれないのであろう。だが、それは私も同様であった。
 私から、彼らに声を掛けることも考えなくはなかったが、自分自身到底そのような状況ではなかった。そうして、やはりそういう気分にはなれなかった。
 それより、今日の参加者の中で一番沈んでいるのは、もしかしたら自分ではないかと思っていた。
 最後のグループが、店から出て来た。その連中と、挨拶を交わすと、わたしは、歩き始めていた。

 昨日は季節外れの異常に暖かい日であったから、積もっていた雪はかなり融けていた。そうして、今日は一転ひどい冷え込みになっていた。つるつるに凍った歩道は、ひどく歩きづらかった。時折、吹き抜ける風が、その氷のうえに薄く降り積もった雪を、舞い上がらせていった。
 私は、もともとそれほど酔っていたわけでもないのに、その冷たい風を身に受けて酔いがすっかり醒めてしまった。妻には、今日は遅くなるかもしれないと言ってあった。私は、どうしても今日はこのまま、まっすぐ家まで帰る気にはなれなかった。
 だが、これから行く店の当てがあるわけでもなかった。会社の接待で使う店は、あったがポケットマネーで行く店ではなかった。友人とよく行く店はあったが、独りでは行く気になれなかった。
 そんな、夜の繁華街を歩いていた私の目に入ってきたのは「ホルモン焼」の看板であった。そういえば、最近はあまり入ることはなかったが、学生時代はよく友人といったものだった。もちろん、焼肉は旨かったが、なによりもしこたま呑んでも、要は安かったのである。

 店に入ると、時節柄かかなり客で込んでいたが、ちょうど空いた席があった。いつもは、ビールを飲むことが多い私であったが、注文を受けに来た店員に、焼酎をボトルで頼んだ。そのとき、私は徹底的に呑んでみたいという気分に駆られていた。
 良い店に入ったと思った。学生時代と同じ、その店は七輪に炭であった。あたりは、ホルモン特有の旨そうな匂いでいっぱいであった。やっぱり肉は、炭火で焼くのが、一番旨いんだ。七輪に向かいながら、思わずひとりごとをつぶやいていた。
 暖かい部屋に入って、酔いがすこし戻ってきたのかもしれなかった。店の中は活気があった。周りを見渡してみると、一人で飲んでいるのは、私だけのようであった。こんな、しぶい酒を飲んでいるのは自分だけだろうと思って、すこし自棄になっている自分を感じた。

 どのくらい経ってからだろう、私はトイレに立った。どうしてこうもホルモン屋のトイレってのは、分かりづらくなっているのだろう。
用を足しながら、私はしょうもないことを考えていた。店の奥のドアを開けてそこにあるかと思えば、またそこからさらに物置のドアのようなものがあったりする通路の、その奥にあるのである。おまけにその通路ときたら、細くてやたら暗かった。
 ずいぶん、飲んだと思った。愉快な酒ではなかったが、あれだけ飲めば、酔ってくるのはあたりまえだと、自問自答している自分が、可笑しかった。酔いのせいで、会社の屈託も家の憂鬱もとりあえずは霧散していた。

 店の外にでると、そこは一面の銀世界になっていた。風も落ちて、しんしんと降り積もっている。
 私は、まだ呑める店を探そうという、はっきりした意思を持っていたわけでは、なかった。ただ、何となくもう少しこの夜の街に、身をおいていたいという、漠然とした思いがあった。時間だけに、さすがに路上の人影もすくない。街路灯のあかりが、ぼんやりと柔らかく感じられた。そうして、雪の所為か、不思議なほど静かだった。わたしは、当ても無くゆっくり、歩いていた。

 そんなに長い時間では、なかったはずである。とある路地を曲がったところで、かすかに笑い声が聞こえてきた。すぐ、目の先に縄のれんの掛かった居酒屋があった。ここに、こんな店があるとは、今までまったく気がつかなかった。あらためて、耳をすますと、そこから聞こえてくるようであった。なにが、そんなに楽しいのだろうと、思わず覗き込んでみたくなるような、そんな気にさせられた。笑い声に誘われるように、私は扉を開けていた。

 間口の小さい、こじんまりした店であった。右側がカウンターになっていて、奥には小上がりがあった。にぎやかに、笑い声を上げていたのは、そこの小上がりにいた一団であった。
 店は賑わっていたが、カウンターの真ん中に一つだけ席が空いていた。その時、私は席が空いていたことを、とても幸運なことだと感じていた。
 カウンターの中にいた女将が「どうぞ」と迎えた。
 席に着いた、私は、とても不思議な気持ちになっていた。初めて来たはずの店なのに、なぜかそうは思えなかった。女将もそして店に居る人たちも、なぜかとても懐かしい人のように感じられた。名前は分からないのに、でも自分はこの人たちを前から識っているような気がした。そうして、今自分がここにいるのことが前からの定めのような気がしてならなかった。
 そう思ったのは、酔いの所為で人恋しくなっていたのかもしれない。そうして私は、この店は真新しい木の香りがすることに気づいた。
 私は、かつて白川郷の合掌造りの建屋に入ったことがあった。この店は、決して時代がかった造りではないが、木材の素地を生かした、素朴な造りが心地良かった。その木のぬくもりが、ふとその白川郷を連想させていた。そうして、私はその木のぬくもりを涙が出るほど懐かしく感じていた。

 女将は、こういう店には珍しく垢抜けしている女性であった。その女将が、徳利と付き出しを目の前に置いた時、私は少し驚いていた。私はめったに日本酒を呑むことはなかったのだが、ここではそれを注文するつもりでいた。
 だが、なぜすぐ出てきたのだろう。たしか、まだ注文はしていなかったはずであるが、回転の鈍くなった頭ではそれも定かではなくなっていた。女将が、ぐい飲みに注いで暮れた熱燗を、私は一気に飲み干した。久方ぶりの酒は、胃に染み入った。
「お客さん、この店は初めてですよね」
 女将が聞いてきた。
「そうだよ。僕ははあまり飲みに出るほうではないけど、ここにこんな店があることはまったく気が付かなかった」
「前から店はあったんですけど、スナックだったんですよ。改装して最近この居酒屋を始めたんです」
「そうなんだ」
「早めに召し上がれ」
 突き出しを、すすめると女将は他の客の所に移っていった。
 客といえば、私は、右隣で一人で呑んでいる男が妙に、気になっていた。自分よりは年上であることは間違いないと思うが、年齢のはっきりしない男であった。ごましおの髪を短く刈り上げた、小がらな男であった。静かに、旨そうに酒を呑んでいた。どうして気になったのか思い出してみると、ひどく時代がかったなりをしていた、ような気がする。だが、実際どんな服装だったのか、いざ思い出そうとするとその部分の記憶がぼんやりしてしまう。残っている記憶は黒い服装と昔がかったその印象だけであった。
 もしかしたら、その時の自分は、すでに少しずつ酩酊状態に入りつつあったのかもしれない。

 私はその突き出しに手をつけた。口に入れたときに、なんともいえない懐かしい味が広がった。いったい、これはなんであろう、何でこんなに懐かしく感じるのだろう。
 私は、ぼんやりした頭の中で、必死に記憶を探っていた。私は、その時時の流れを遡っていた。ふいに、記憶の視界が開け、子供の私が見えた。そうだこれは、煮凝りだ。母が、私の小さい頃よく食べさせてくれたものだった。

 子供のころの私は、ひどく神経質で体も弱かった。そんな、私を母はひどく心配していたようであった。決して裕福ではなかったはずの家であったが、母は私に栄養のあるものを食べさせようとしていた。煮凝りは、体に良いということを、母はだれかから聞いたのではないかと思う。はじめは、私は煮凝りはあまり好きではなかった。だが、少しづつ、私は煮凝りが食べられるようになっていった。
 そうだ、そのころは、母も若かった。私たちは、間違いなく幸せだった。だが、父が体調を崩して退職してからは、苦労の連続だった。そうして、もう二人ともいなかった。 そこまで、記憶の糸が繋がったときであった。

「そうだったよなあ、あんたの母さんは、苦労したよ」
 隣の男の声が、私の耳の中に飛び込んできた。店の中は、相変わらず賑やかであった。男は、つぶやくように話したのに、私はなぜかはっきりと彼の言葉を聞き取ることができた。それより、私の考えていることをなぜ彼が、言い当てたのかそれを不思議と感じていない自分が、自分でも不思議であった。
 男は、私の目をじっと覗き込んでいた。私は、彼の目に好意を読み取ることは出来なかったが、少なくとも悪意を感じることは無かった。そうして、見ず知らずの男なのに、警戒心を全く抱いていない自分に気が付いていた。
「母さんは、体が丈夫じゃなかった」
「それに、おばあさんにずいぶん世話を掛けたな」
 確かに母は体が、丈夫ではなかった。私を産んだ時、ひどい出血をして生死の境をさ迷ったそうである。幸い、事なきを得たが、それからは、母はずっと低血圧と頭痛に悩まされ続けることになった。その時、私も死に掛けたが、駆けつけた祖母のお陰で、一命を取り留めたということを聞いている。
 父が、退職せざるを得なくなったとき、母は仕出屋で働くことを決めた。朝早くからのきつい仕事であった。だが、それだけでは、病気の父を抱えて、家計をささえることはできなかった。仕出屋の仕事が、終わってからは食堂で働いた。決して弱音をはかない母であったが、体がきついことを、私は知っていた。その後、その食堂を継ぐことになった母は、なんとか家計を支え続けて、結局私は大学に行かせてもらうことができた。

 まだ、父が元気だったころ、祖母が私の家に遊びに来た記憶がある。かなり、長い滞在であった。小さい頃のことなのではっきりとはしないが、半年くらいは居たのかもしれない。
 当時の私は、悪ガキ真っ最中であった。母が、宿題をさせておくよう祖母に頼んで、出かけたことがある。そのころの私にとって、祖母は父や母より組し易い存在であった。何かと理由をつけては、祖母の言葉を無視して、外に飛び出しては遊び呆けていた。今から思うと、どれだけ祖母を困らせ、悲しませていたかと思うと心が痛む。

 その、ずっと後の祖母の、晩年のことである。働きずくめで趣味というものをまったく持たない祖母であったが、手芸を始めた。孫たちに渡すのだといって、わらじを作り始めた。そのわらじは、とても小さかったが、しかし非常に精緻なものであった。昔のことで、母の兄弟は、多かった。当然、祖母の孫の数は、かなりの数になっていた。祖母は、その作ったわらじを最初に、私に渡すのだと云ったということである。

 私はたった今、その祖母の気持ちを感じ取っていた。母が私を産んだとき、祖母は、娘と孫を同時に失うかもしれなかったのである。そうして、祖母は三日三晩、私を抱きしめていたそうである。もしそこに祖母がいなければ、おそらくわたしはこの世にいなかったに違いない。それだからこそ、祖母は、私のことを特別に思っていたのだと思う。私は、ふいに目頭が熱くなった。

 会社では、私は孤独だった。立場の、違いはいかんともしがたかった。私を、理解してくれるものは誰もいなかった。仕事で、疲れて遅く帰っても、家は憩いの場にはならなかった。妻も、息子も自分の生活があるだけであった。私が、会社で仕事をするのは当然のことで、その中身など二人にとってまったく興味のあることでは無いようだった。私は、全く理解されていないと感じていた。そうして、意固地になっている自分を感じていた。自分は誰にも愛されていないのだと、そう思った。

 その男はまだ、何も言っていなかったが、私はその男が言おうとしている言葉を、感じ取ることが出来た。
「でも、母さんもおばあさんも、あんたを、愛していた」
「母さんは、あんたの成長だけを楽しみに、頑張り抜いたんじゃないか。だからあんたも頑張らなくちゃならないだろう」
 思わずわたしは、その男の方を振り向いた。
 その男の目を、さっきとは違う風に感じる、自分がいた。
 私は、たまっていた、涙が思わず溢れてしまうのを感じていた。

 私は、扉をしめるときに、「必ずここにまた来る」とそう思っていた。
 それが、そこでの微かな最後の記憶となっていた。
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