HOME > 小説の森 > 居酒屋 > 第二話  女将

 いつのまにか、もう年の瀬も迫っていた。
 ずっと、仕事の方が忙しかった。件(くだん)の居酒屋へ、すぐにでも行きたいとは思っていたが中々時間をつくることが出来なかった。今日は、久方ぶりにお得意先を接待して、先ほどホテルまで送ってきたところであった。
 私が行う接待というものは、とりたてて難しいことは何もなかった。お客様に、旨いものを食べさせる店に案内して、ただ、楽しい酒を飲んでもらうことだけであった。小難しい駆け引きをしたり、二次会や三次会までお付き合いをしなければならないということはなかった。逆にそのような対応が必要な相手には、本社から営業部長が随行してくることになっていた。そうわけであるから、私がお相手をする相手は殆んどが紳士であることもあって、接待そのものを苦にしたことはまったくといっていいほど無かった。
 それでも、接待する側である以上、やはりいろいろと気を使うことはある。当然のことであるが、酒を殺して飲むこともあるわけだし、いつも脳天気に旨い酒を飲んでいるわけではなかった。
 妻には、接待なのだから、そうそう早く帰るわけにはいかないと云ってあった。実際は、接待が終わってから、気の置けない酒を飲んでから帰宅するのが、私の役得であり、ささやかな楽しみであった。

 私には一つの危惧があった。 もしかしたら、あの居酒屋は見つからないのかも知れないと。あまりにも、記憶が定かではなくで、もしかしたら夢を見ていたのかもしれないという気がしていた。だが、夢にしてはあまりにも、記憶があざやかであった。その角を曲がった時、私は安堵していた。縄暖簾の店が、確かにそこにあったのである。
 扉をあけると、女将がいた。
 「あら、いらっしゃい。川上さん」
 私は、戸惑いを覚えた。それは、いつ自分の名前を言ったのだろうか、記憶がなかったからである。それほど、酔ってしまっていたのだろうか。それは少し気恥ずかしい思いであるが、女将が私の名前を覚えていてくれたことは、正直嬉しい気持ちであった。
 平日だけに、店はそれほど混んでいるというほどではなかったが、それでも繁盛している店であることは間違いなかった。
 私は、突き出しが気になって見たのだが、そこにはごく普通の小魚の和え物が添えられていた。気になっていた煮凝りのことについて、聞きたいとは思ったが、だがそれよりもっと聞きたいことがあった。私は、早速口を開いた。

「女将さん、この前僕が来たとき、隣に座っていた男の人がいたよね」
「そうね、いましたね」
「その人、いつもよく来る人なの」
「いいえ、川上さんの来た、そう前々日に初めて、来た人なの」
「この前来た時は、僕はもう随分酔っていたみたいなんだけど、その人と話をした記憶があるんだ。だいぶん話をしていたんだろうか」
「いいえ、そんなに長くは話をしていなかったと思うわ」
「川上さん、トイレに立った後、その後は小上がりに座ってしまって、そのまましばらくダウンしたのよ。でもね、すぐ目を覚ましたけど、覚えていないんでしょ」
「川上さんが、帰るときは、そのお客さんはもういなかったわ」
 そのことは覚えていなかった。そのあたりのもう少し詳しい顛末も気にはなったが、件の男のことが聞きたかった。
「そのお客というのは、この街に住んでいるんだろうか?」
「いいえ、違うわ」
 やはりと、私は心の中で思った。その男が、この街に住んでいるのならば、また会うことができるに違いないと私は思っていた。だが、私は漠然とその男は遠くの街から来たような気がしてならなかったのだ。だから予想していたことであったが、私は落胆した気持ちを隠すことができなかった。
「ところで、どこから来たとは、聞いてはいないだろうか」
 改めて私は聞きなおした。
 「確か、S町から来たと云っていたわ」

 私は、S町と聞いたとたん、なんだろうどこかで聞いた町の名前だと思った。一瞬の空白の時があったが、すぐに私は思い出すことが出来た。
まさか、ここでS町の名前を聞くことになるとは、思ってもいなかった。私にとっては、過去の記憶との不思議な符牒の一致があった。

 私は子供の頃、母からよくS町の「おじさん」の話を聞かせられた。というより、せがんで私が何度も母に聞きなおしたといういうのが、本当のところであった。それは、とても不思議な話であった。
 当時内向的だったわたしは、不思議な話にはものすごく興味を持っていた。半分恐ろしくもあり、夢でうなされることもたびたびあったにもかかわらず、そういうことに対する好奇心をどうしても抑えることが出来なかった。
 その「おじさん」は「伯父さん」なのか「叔父さん」なのかそれとも単なる「おじさん」なのか、父か母に聞こう聞こうと思いつつ、結局聞きそびれてしまっていた。父も母も亡くなった後ではあったが、親類のものにいろいろ聞いてみた。だが、S町に係累はいないということであった。
 母の話はこうであった。
 S町の「おじさん」は千里眼だというのである。そればかりか催眠術もかけることが出来たというのである。子供だった私は、それらの言葉がはっきりと理解できていたわけでもないのに、なにか「おどろおどろしい」ものを感じて、とても怖かった。だが、私はどうしても、その話を聞きたいという気持ちを抑えることが出来なかった。

 私がまだ、赤ちゃんの時のことだそうである。当時、父はS町の隣町の巡査であった。その「おじさん」がある時、父に云ったそうである。
「泥棒が逃げて行くのが見える。今鳥居の下で休んでいるから、すぐ行けば捕まえることができる」
 そうして、その泥棒の身なりを、事細かに父に伝えたそうであった。半信半疑であった父ではあったが、あまりに具体的な話に、確かめる気になったようであった。鳥居といえば、町外れにある神社の鳥居のことであろうと、父はそう思って急いだそうである。
 父が、現場に着いた時、まさに男は云われたとおりの身なりであった。その男は、鳥居の下で座り込んで、煙草を吹かしていた。職務質問をした父に、男はあっさりと、罪を認めたそうである。
 当時の、巡査は現代よりも、ずっとずっと権威のある存在であったし、他人の目というものも今よりずっと多かったのである。そうそう、言い逃れをすることが出来ないと観念したのでであろう。
 だが、なぜ父は隣町にいたのか、いや逆にそのおじさんが父の町に来ていたのかもしれない。父と、その「おじさん」はどういうつながりであったのであろうか。今となっては、その謎は深い霧の中であった。
 子供の頃の私にとっては、千里眼より催眠術のほうがずっと、ずっと、不思議なことであった。なぜなら、催眠術は人の心を操ることができたのだから。
私は、そう思っていた。その後、知識を得るとともに催眠術に対しては、それほど、不思議なことではないことかもしれないと思うようになった。だが、それとは逆に、千里眼への畏敬は、増すばかりであった。
 しかし、私が、成長するにしたがって、この話を聞くこともだんだん少なくなっていったし、子供の頃の話として、徐々に私のなかの記憶の海に沈んでいった。

 ある程度の物心が付いた時、どういう経緯だったか、母から聞いた次の言葉が、その「おじさん」に対する最後の記憶となっていた。
 その「おじさん」はその後も、普通では考えられないことを、何度も行ったようである。だが、あるとき、町の中から、お上に、「いかがわしいことを行い。人心を惑わすものがいる」と訴え出たものがあった。彼に助けられているものも多かったのにもかかわらず、彼を助けようとするものは一人として現れなかった。きっと、係わり合いになることを、恐れたのだろうと思う。だから町をあげて、彼を糾弾する動きになって、彼ははのっぴきならない立場に追い込まれていった。その時、父が身体を張って、彼をかばったそうである。巡査である父はS町の連中にも一目も二目もおかれていたようであった。父の、不退転の態度に町の連中の態度も収まって、上の連中も結局話をうやむやのままで終わらせることに、同意したようであった。

 後日、彼が菓子折りを持って家を訪ねて来たことがあったそうである。父はその時、その不思議な能力は今後封印するように、それが今は一番良いことであると彼に言い聞かせたそうである。彼は、よく分かりましたと、云って退出したそうである。そのとき、そのおじさんは自分を抱いたそうである。そうして、この子とはまた会うことになると云ったそうである。もちろん、そのことを、私は覚えていないが、今でもその言葉は、私の心の中に澱のように、沈殿していた。
 だが、なぜ父は身体を張ってまで彼をかばったのであろうか。そのことは、何かの意味があったのだろうか。父の生前中に、なぜそのことを聞いておかなかったのだろうか、私は、取り返しの付かない失敗をしてしまったような気がしてならなかった。

「村上さん、どうかなさったの」
 わたしは、女将の呼ぶ声で我に返っていた。
「ああ、ちょっと考え事をしていたんだ」
「随分、難しいような顔をして、酒にも手を付けずにいたから、どうしたのかと思ったわ」
「ああそうか、ところで女将さんはS町に行ったことがある?」
「いいえ、名前は知っているけれども、行ったことはまだないわ」
「実は、僕もなんだ。いつかどうしても行ってみたいと思ってる町なんだけど、中々機会が無くてね」
 そうして、私は自分の記憶にある、このS町の話をした。
「何か、不思議な話ね」
「お父さんと、そのおじさんという人と絶対なにか繋がりがあったんだと思うわ」
「僕もそう思うけど、今となっては調べようが無いんだ、まあ、仕事を辞めてでも調べるというなら話は別かもしれないけど、そんな酔狂なことできる身分でもないしね」
「それは、そうよね」
「実は、S町の名前を聞いて、この前の男の人がまさか、そのおじさんじゃないか、とちょっと思ったんだ」
 そこで、私は酒をあおると、話を続けた。
「でも、いくら偶然だと云ったって、こんなことは、ありえない話だよね」
「それじゃそのおじさんて人は、今いくつ位なの」
 そう云われて、私ははたと考え込んだ。
「親父が、もし今生きていれば72歳になる。話をいろいろつなぎ合わせてみると、親父よりは下のようだったから、70くらいか、60代の後半かそんなところだと思うんだけれど」
「ずいぶん、曖昧なのね」
「そうなんだ」
「でも、川上さん、この前の男の人幾つに見える」
「それが、よく分からないんだ、そうはいっても60になってはいないと思うんだけど」
 私は、職業柄、大体の年齢というものはそう外したことがなかった。だが、この前の男の年だけはどうもはっきりとはしない。
「それは、私も、そう思うわ、それより、もっと若い気もするの。だから、川上さんの云う、おじさんではないと、思うわ」
 そのとき、女将を呼ぶ声がした。
 どうやら、今まで、私が女将を独り占めしてしまっていたようであった。
 結局、あの男のことはなにも分からなかった。だが、いつかこの店でまた会うことがあるだろう、期待を込めて私はそう思うしかなかった。
 頼んでいた、料理を『スミ』ちゃんが運んで来た。この前来た時には、彼女には気が付かなかった。いつもは、調理場を受け持っているらしい。その名前は先ほど教えてもらったばかりであった。
「ところで、この前来た時、付き出しに煮凝りがでてきたのだけど、スミちゃんが作ったの」
「いいえ、女将さんが家で作って持ってきたものよ。私は作ったことがないもの」
 やはりと、私は心の中でうなづいていた。
「ところで、ママは元々はこの町の人ではないないんだろう、どこに居たのか知ってる?」
 だが、彼女は知らないと私の質問を軽くかわした。私は、女将が彼女に口止めしているに違いないと感じていた。私は、質問を変えた。
「ところで、女将さんの歳は幾つなんだろう」
「あら、川上さん、気になるの。あらあら、競争相手多いわよ」
「そんなんじゃ、ないんだ。ただ、気になっただけだよ」
「そうですか、じゃ直接女将さんに聞いてみたら」
 彼女は、うんざりだと言わんばかりの顔つきで、持ち場に戻っていった。調理場とはいっても、カウンターの中の一角がそれであった。時間とともに、客は増えてきて、そのうち入り口を開けたものの、中に入れないものも出だした。
 私は、潮時を感じていた。勘定を頼むと、女将が来た。
「今日は、どうもありがとうございました」
「女将さんに、会えて嬉しかった。もっといろいろ話をしたかったのだけど、また来るよ」
「あらあら、いつのことになるやら、きっと来年になるのでしょう」
 そう云われて、私は気が付いた、今年も残すところ幾日もない。今度来るのは間違いなく来年になるだろう。
「年明けは、三日から店を開けて居ます。ぜひ、またいらしてください。お待ちしていますから」
 彼女は、笑顔で私に、そう云った。
 店を出てから、改めて縄のれんをしげしげと眺めた。そうして、私は、店の名前が『遠野』であることを知った。遠野物語で有名な遠野であろうか、私は若い頃東北を旅行したことがあって、その街を通り過ぎた記憶がある。女将は、その地になにかゆかりがあるのだろうか、そんなことを考えながら、私は家へ向かう道を歩いていた。
 夜の街に浮かぶ、飲み屋の明かりはぼんやりと闇ににじんで、私は過ぎ行く年に、多少の感慨を覚えていた。

「女将は美人だな。おまえが何でここに来ようって云ったのか、分かったよ」
 沢崎がいった。私の親友である。
「そんなんじゃないよ、いい店だろここは」
「確かに、そうだが。今年に限ってこんなに早くから飲もうなんて変だなとは思っていたんだ」
 悪い悪いと言った私は、やっぱり彼をダシにしたのかもしれないと思っていた。
 三日なら都合がつくといったのは、沢崎であった。妻に沢崎と呑むのだと云ったら、妻も彼ならしょうがないというような顔をしていた。
 それにしても、今日の女将は見違えた。和服だったのである。それも、黒の縦じまであった。

 いつもは、そうだGパンであった。そうして、すらっとした後ろ姿が、印象に残っていた。
「女将さんの和服姿を見れるなんて思ってもみなかった」
「正月ですもの、良いでしょ。似合うかしら」
 似合うなんてものではなかった、ここまで和服を着こなせる女はそうそうお目にかかれない。
 そう云ってから、私は、突然彼女の過去を気にしている自分に気がついた。そうして、今の今まで彼女は独身であると思い込んでいる自分にも気が付いた。実際のところはどうなのであろう。私と、おそらくそんなには年が違わないであろうと思う。なのに、彼女をそう云う風に思っていたことは、よくよく考えると、ひどく不自然なことであった。理由はあった、彼女には、いわゆる生活臭が無かったのである。ひどく、しっかりしているようにも見えるが、少女のようなあどけない表情をみせることがあった。そうして、私は、今自分が彼女に惹かれていることに、ようやく気づいていた。その気持ちに戸惑った私は、沢崎にこう云っていた。
「沢崎、さあ、今日は呑むぞ」
 正月早々にもかかわらず、店は繁盛していた。客の中にも、和服の女性が見受けられた。そのせいだろうか、いっそう、正月らしい華やいだ空気に満ちていた。ともかく、沢崎もこの店が気に入ったようであった。店の喧騒が、気持ちよかった。
 それにつられるように、私たちは、杯を重ねていった。そうして、私は、酔った勢いを借りて、女将の携帯番号を聞いていた。
「後で、教えてあげるわ」
 後でといってどのくらいの後になるのか、それは女の常套句に違いなかった。おそらく、うまく話をかわされるだろうと、半分以上はそう思っていたから、そのような言い方をされても、私は落胆していなかった。だが、沢崎が席を立った時に、彼女は、小さな紙片を私にくれた。
「酔っ払って、無くしちゃだめよ」
 だが、そこには、電話番号ではなく、メールアドレスが書いてあった。それでも、彼女との接点ができたのだから、私は満足していたというよりも、嬉しかったというのが、本心であった。
 そうして女将の名前が「冴子」ということも知った。だが、それが本名なのかどうかまでは、聞いていない。今度来た時には、そこまで話が出来るようになるのであろうか、私はそんな希望を持った。
 私たちは、店を出ていた。酒を飲んではいても、さすがに外の寒さは身にしみた。
「次の店に行くぞ」
 沢崎が云った。

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