HOME > 小説の森 > 居酒屋 > 第六話  恋心

 私は、女将のアドレスにメールを送った。彼女からの返信にはこう書いてあった。
「メールいただけて、嬉しく思います。とても、楽しみにお待ちしています・・・冴子」
 私は、彼女がいわゆる商売上の外交辞令としての文面を送ってくることも、考えのうちにあったが、「とても」という言葉に目が惹き付けられていた。どうしても、贔屓目(ひいきめ)にみたくなるのが人の性というものであったろうが、私にはそれだけにはどうしても思えなかった。彼女の、本当の気持ちが入っているように思えてならない。たとえそれが、わたしの独りよがりの思い込みでも、それでもいいと思っていた。

 冴子は、夕方、必ずメールを確認することにしていた。ほとんどは、馴染みの客からのメールであったが、とはいっても大した数ではなかった。なぜなら、メールを使える客が常連の中では少なかったというごく単純な理由であった。『遠野』の常連では、若い人よりも、そうでない人のほうが多かった。冴子は、メールを確認しながら、あらと声をあげた。その日、珍しい男からメールが入っていたからである、川上であった。
 彼は、冴子が若い頃に、仄かに想いを抱いていた男に、どこか雰囲気が似ていた。頼りがいはあるのだが、どこか抜けているというか、子どもみたいなところがあった。そんなところが、好ましく感じていた。早速簡単な、返信を送った。
 メールを送ってから、冴子はしばらくぼんやりしていた。このマンションの三階から見える景色を、冴子は気に入っていた。やはり、子供の頃からの環境のせいだろうか、緑の見え無いところに住むことは、耐えられないことだった。だから、札幌に住んでいた時も、そのためにわざわざ郊外のマンションを選んだのであった。
 冴子は、窓際の椅子に脚を組んで座っていた。窓の下は、駐車場になっているが、そこに小さな公園が隣接していた。その公園では、幼い兄妹であろうか、遊んでいる様子が、ほほえましく見えた。
 この街に来てから、もう半年が過ぎていた。今年は、自分もいよいよ、三十代の最後の年を迎える。独りが寂しいと思ったことはない。だが、自分自身がそれを求めたことではあったが、この街では、知り合いが少ない。いつも、金田のママのところへ、遊びにばかり行っているわけにもいかない。だから、気の張らない話し相手がいてもいいなと思うようになっていた。そうして、なぜか川上の顔が思い浮かんでいた。
 今日の突き出し、川上が気に入ってくれるだろうかと思った。どうと云うほどのことは、なかったが、少し気持ちがうきうきしている自分を感じていた。
 冴子は、そろそろ店に出る準備を始めようと、立ち上がった。窓から斜めに差し込む夕日が、彼女の背をよぎった。

 私が、今日新年会をしようと、考えたのは、これ以上職場の士気を下げたくなかったからである。賞与が、予想されていたこととはいえ、まったく出なかったことは、社員に大きな気持ちのダメージを与えていた。しかし、新年会の費用を会社で持ってくれと云っても、断わられるのは目に見えていた。そこで、私は社長に直談判した。とにかく、最低限でも何らかのできる手を打たないと、とてもじゃないが、今年一年戦うことは、できることではないと訴えたのである。私が、提示した落としどころは、幹部の新年会であった。その程度なら、会社の負担もさほどではない。私も、それなら、なんとか彼らを説得して、今後の奮起を、促すこともできないことは無いと上申したのであった。長い、やりとりになったが、結局社長は、そのことを了解してくれた。あとは、二次会を安いスナックであげれば、私のポケットマネーでも対応できるだろう。これで、何とか、形になると私は思った。
 だが、私はもうひとつの、私の心の中にあった思惑に気づいていた。新年会が、終わったあとに『遠野』に行くことができる。妻にも、遅くなる口実ができたと思っている自分がいた。

 二次会は飲み放題の店だったので、時間は気にすることはなかったのだが、それにしても、すっかり盛り上がって、連中は腰を上げる気配など微塵もなかった。私は部下の戸田を呼ぶと、ここの勘定は私が済ませたことと、先に失礼する旨を伝えた。私は、目立たないように消えるつもりだったが、戸田と沢口が、扉のところまで見送りに来てくれた。
 扉の外に出ると、辺りは静かだった。まあ、今日は良い酒になったと思った。久方ぶりに、部下達と楽しい酒を呑むことができた。だが、これから、女将に会いに行くということが、やはり自分の心を明るくしている最大の理由だと、分かってはいた。

 すでに、見慣れた縄のれんをくぐると、私は店に入った。女将が、にっこりと笑うと迎えてくれた。私は、一瞬であるが彼女と視線を交わしたが、それだけで充分心がこころが通う気がした。
「いらっしゃい、お待ちしておりましたよ。でも、すこし遅かったようですね」
「いや、新年会が盛り上がってね、二次会がなかなか、終わらなくて」
「そうだったんですか、今日は、何にします」
「まず、ビールを貰おうかな」
 私はそこで、熱いお絞りで手をぬぐいながら、店内を見回した。相変わらず、繁盛していると思った。料理は旨いし、女将が美人じゃ当然だろうと思った。
「今日の、突き出しはお気にいるでしょうか?」
「へえ、これは、ワカサギの佃煮かな?」
「そのとおりよ、こちらはわかる?」
「ちょっとつまんでみるよ、食感がいいな、何だろう? わからないな」
「丘ひじきの和え物ですよ、つまみに合うでしょ?」
「たしかに、ここの突き出しはいつも、楽しませてくれるね」
「ゆっくりしていってね、またあとで来ますから」
 そういうと、女将は客の応対に忙しそうであった。
 私のところに、再び、彼女が来て話をすることが出来たのは、かなりの時間が経ってからだった。
「今日は、新年会だったのね」
「ああ、そうだよ」
「明日は、お休み?」
「そういうこと、だから今日にしたんだ」
「そうでしょうね、それじゃ、ゆっくりしていくんでしょ?」
「ああ、そのつもりで、来ている」
「じゃ、最後まで居る?」
 そう云った、彼女の目はいたずらを、思いついた子どものようにきらきらと輝いていた。
「もちろんさ」
 この店は、十二時が閉店になっていた。だから初め、私はそのあと店が引けてから二人で差しで、飲むことが出来るのかなと思っていた。
 十二時になったとき、冴子がいった。
「サキちゃんご苦労様、もう上っていいわよ」
 店には、私の他に年配の男が一人いるだけであったが、間もなくその男も腰をあげた。
 この店にいるのは、女将とそして私の二人だけであった。そのことだけで、もちろん私の胸はときめいていたし、幸せであった。
「たまには、私も飲みたいなあって思うことが、あるの、付き合う?」
「僕でよかったら」
「ちょっと遅くなるけど、大丈夫かしら?」
 彼女は、私の気持ちを推し量るように、目を覗き込んだ。
「子供じゃないんだ、大丈夫だよ」
 正直なところ、私の妻は、午前様になれば、機嫌の良いわけはなかった。でも、新年会ということで、そんなに目くじらはたたないはずであった。
「そうよね」
 そういうと、彼女は、にっこり微笑んだ。
「ちょっと、待ってて、すぐ店を閉めるから」
 それから、彼女は、携帯を取り上げた。
「ああ、ママ、私よ冴子、今から、行ってもいい? そう分かったわ、ああ、店のお客さんも一人いっしょに行くから、ええ、そんなんじゃないわ、じゃあね」
 それから、間もなく、私たちは店の外に出た。少しだけ雪が、降っていた。
「私の、行きつけの店に行きましょう。ちょっと離れているけど、タクシーで行く程の距離でもないの、歩くの大丈夫」
「もちろさ、まだ、そんなには酔ってなんかいないさ」
 というより、私は、女将と二人連れ立って歩くことが出来て、幸せだった。時間が時間だけに、街を歩く人影は少なかったが、週末のせいだろうか、店の明かりはまだあちこち灯っていた。いつの間にか、繁華街を抜けていた。その店は、裏通りにひっそりと在った。彼女に続いて入るとき、私はその店の名を頭に刻んでいた。扉にはスナック『蘭』と書いてあった。

「いらっしゃい、待っていたわよ」
 その店は、何と云ったらいいだろう、照明がしゃれているというか、ちょっと海の底にでも来たような、不思議な雰囲気があった。ボックスはなくカウンターだけの、こじんまりした店だった。この時間ではあったが、一組の若いカップルと男の客が二人いた。低くジャズが流れていた。私は、女将の好みが自分と近いことを知って、ひどく嬉しくなった。
「冴子が、この店に二人で来るなんて珍しいわね、紹介して」
 おしぼりを、手渡しながら、ママがにっこり笑った。私や女将よりは、ずっと年上だろうと思った。すこし、ふくよかで、しゃべり方がゆったりしていて、表情が魅力的な女性であった。
「店の、常連さんで、川上さんとおっしゃるの」
「始めまして、建設機械関係の営業をやっています。よろしく、常連というのはおこがましいんですが、『遠野』は大好きな店なんです」
 ママは一瞬私の、目を覗き込むように視線が尖ったが、すぐ元の穏やかな表情に戻っていた。私を、値踏みしたのだろうと思った。ママと女将の間柄は知らないが、先ほどの電話でとても親密なように感じていた。だから、得体の知れない男が来れば、誰だって些かの興味と警戒心を抱いて当然だと思った。だが、私はそのママの表情の変化からから、少なくとも悪い印象を持たれはしなかったということを感じた。
「僕にも、ママを紹介してよ」
「私の、姉さんみたいな人なの、いつもお世話になっているの。そうして、ここは、この街の私の一番のお気に入りの場所なの」
 ママがくれた名刺には『金田亜沙子』と書いてあった。
「川上さん、何を飲みます」
 そのとき、私は女将は何を飲むのか聞こうと思って、言葉につまった。なぜなら、彼女のことを何と呼んだらいいのか、戸惑ったからであった。
 まず、苗字を聞いていなかった。女将では、『遠野』ならいざ知らずこの店では相応しくなかっただろう。君では親しすぎるし、冴子さんも気恥ずかしかった。それでも、結局私はこう聞いていた。
「冴子さんは、何を飲むの?」
「私は、いつも水割りなの」
「じゃ、僕も同じ」
「私も、いつものごちそうになるわよ」
 ママが云った。
 三人で乾杯して、ひとしきり、挨拶代わりのたわいのない話をしてから、ママがもう一人の客の男のところに行ったのを潮に、私は彼女に云った。
「今日は、誘ってくれてありがとう。今は、最高に幸せだ」
「どういたしまして、私も今日は、何となく独りじゃつまらないなと思っていたの」
「この店は、いいね、とても気に入った。よく来るの?」
「私の、隠れ家よ。ママとは、私の古くからの知り合いなの」
「そうなんだ、ところで前から、聞きたいと思っていたんだけれど、冴子さんて本名なの、苗字は何ていうの?」
「あら、私、名刺渡していなかったかしら。それじゃ今あげるわ」
 そういうと、彼女は、バックを手に取った。私はいわゆるブランド品というものは分からなかったが、そのバックは白くて、華奢でしゃれていた。センスが良いと思った。そうして、渡された名刺には、『藤澤冴子』とあった。
「本名よ」
「それと、もう一つ、聞きたかったことがあるんだ。この街は永いの?」
「あらあら、まるで刑事さんね?」
「そんなに、私のことが聞きたい?」
「ああ」
「どうして?」
 彼女は、からかうように私の目を覗き込んだ。私は、心の中では、君に惹かれたからだと云いたかったが、もちろんそんなことを、云える筈がなかった。
「いいや、あの店が出来てそんなに経っていないって聞いたよね、それでさ」
「そう」
 彼女は、ふっと息を吐くと、微笑んだように私には思えた。
「じゃ、今日は少し教えてあげる」
「少し?」
「そうよ、だって、また、お話できるでしょ」
 私は、その言葉が、正直嬉しかった。彼女が、教えてくれたのは、この街に来る前に居たのは、札幌だったということだけだった、どうして札幌を出たのか、どうしてこの街に来たのかは話してはくれなかった。でも、私は満足だった。
 
 そのときほど、時間の経つのが早く感じられたことはなかった。
「川上さん、もうすぐ二時になるわ、店を閉めるから。タクシーを呼びましょうか」
 ママにそう聞かれた。
「冴子さんは?」
 思わず、私は聞いてしまった。
「ママと一緒に帰るわ、いつもそうしているの」
「そうか、僕は歩いて帰るよ、歩いても、そんな距離じゃないんだ」
「今度は、いつ来るの?」
 そう聞いた、彼女の顔を、やはり、いとおしく感じた。
「いつになるか分からないけど、必ずまた行くから」
「待っているわ」

 私は、雪の道を歩きながら、ちょっぴり複雑な気持ちになっていた。自分は、いったい何を期待していたんだろう。そんな、気持ちもあったが、やはり、とても、幸せな気持ちでもあったことは事実だった。こんど、彼女と会ったときは、もっといろいろ話を聞けるだろう、そういう期待があった。『遠野』を出たときよりは、雪はずっと大降りになっていた。このぶんだと、明日の朝は、結構積もるかもしれないな、そんなことをぼんやり考えていた。

 金田亜沙子は、隣で目を瞑(つむ)っている、冴子を気にかけていた。彼女の横顔を見ながら、以前はそう思ったことはなかったが、だんだん母親に似てきている気がした。裕香は美しい女であった。
 長い間、冴子を実の妹のようにも思ってきた。川上のことは、好感出来る男だと思った。だが、やはり冴子の様子が気になった。亜沙子は、冴子ほど聡明で、気持ちの綺麗な女を知らない。そうして、今日ほど楽しそうな顔をした冴子は、しばらく見た記憶が無かった。だが、川上は、妻子ある男であった。そのことが、亜沙子の心にこれからの二人の未来に一抹の不安な陰を感じた。でもと、一方冴子にはそんな心配などいらないのではないかいう気持ちもあった。いずれにしても、そんな風に心配している自分が可笑しくてしかたがなかった。なぜなら、自分がしてきたことはなんだっただろう、他人から見たら、それこそ、型破りな女であったに違いない。人生は、物語があるからこそ、楽しいのじゃないのだろうか、そんな気持ちになっていた。
 タクシーのワイパーは、降りがひどくなってきた雪を振り払うように、せわしなく動いていた。亜沙子の家までは、もう間もなくであった。
「冴子、今日は私の家に泊っていきなさいよ」
 亜沙子は、そう云った。
「今日は、大丈夫の?」
「そうよ」
 冴子は、こっくりとうなづいた。

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