HOME > 小説の森 > カエル

 私は、かつて雪深い、ある地方都市の工場に勤務していたことがある。
 春から初夏へと季節が巡る頃、いつも思い出すことがある。

 その工場で一緒に働いていたM先輩は、無類の酒好きであった。私も、嫌いなほうではなかったから、そんなことで、特に親くなった人間であった。
 人柄が良かった彼は、皆から慕われていて、苗字で呼ぶものなどほとんど居なかった。彼は、Mちゃんで通っていた。先輩ではあったが、いつの間にか私も彼のことをそう呼ぶようになっていた。
 それは、その地方にしては珍しく、天気が良くて、暑い日が三日ほど続いた日のことであった。
 昼の弁当を食べ終わった私は、いつものように頭のうしろに、両手を組んで、椅子の背もたれに寄りかかっていた。其の日は余りにも外が明るかったので、見るとも無く窓越しの景色を眺めていた。工場の前は、結構広い平地になっていて、春先は雪解けの水であちらこちらに水溜りができている。其の向こうには、ちょっとした林があって、緑が目に染み入るように鮮やかであった。
 その時である、その先輩がホースを持って、工場の前に現れた。そうして、水を撒き始めたのである。
 私は、何をしているのだろうと不思議に思った。 いくら、天気が良いといったって水を撒くほどの暑さではない。ましてや乾燥して土埃りが舞うなんて状態では全然なかったのである。
 しばらくその様子を眺めていた私は、工場の入り口の引き戸をあけて、彼の方へ向かって歩き出した。そうして、何をしているのか、彼に問いかけた。
 彼は、水を撒いていた手を止めると、首に巻いていたタオルで額の汗をぬぐった。そうして、そこを見てくれと私に云った。
 私は、彼の指差した水溜りを覗き込んだ。何と驚いたことに、そこには沢山のおたまじゃくしが泳いでいたのである。
 私は、あっけに取られてしばらくその光景に、見入っていた。そうして彼が、水を撒いていた理由を理解したのである。
 彼は優しい人間であった。私は、彼のその心根の優しさに感動を覚えた。だが、しかし、同時に余りの人の良さにも呆れてもいた。
 なぜなら、その水溜りはどれくらいあったことだろう。半端な数ではない。その全てに、水を撒くつもりなのであろうか、私はそのことを考えたのである。
 ずっと後になってから私は、彼はただおたまじゃくしが、可愛そうだと思っただけなのだろうと考えるようになった。おそらく、それ以外のことは、彼の頭の中には何も無かったに違いない。
 残念ながら、その後の水溜りの記憶は私には無い。だが、彼に助けられたカエルはきっと居たのだろう、私はそう信じている。

 水を撒いている彼の後姿。ホースから空に向かって吹き上がっていく水。そうして地面に振り注ぐ小さな水滴の連なり。
 その水滴が、陽の光を浴びてキラキラと、プリズムのように眩しく光っていたのが、今でも私の記憶の中に焼きついている。


<完>

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