HOME > 小説(現代) > 灰色の川

 私は、かつて東京に住んでいたことがある。東京は、誰でもが認める日本で最大の繁華街であろう。まさに、都会の華やかさと煌びやかさと こわく的な魅力で彩られた巨大な街である。
 しかし、その街にも緑はあるし川もある、海だってある、それに下町に行けば風情のある昔ながらの建物だって見ることができた。だから、私は結構東京が好きだったと思う。でもやはり、その街はコンクリートで覆われていたという印象が強いのは、あのことがあったからなのかもしれない。

 私の勤務先からは、目黒川が見えた。いつもはひどく水量が少なくて、お世辞にも綺麗な水ではなかったが、まあ川といえるものではあった。都内では、そのようなところが多かったと思うが、流れの両側は切り立っていてコンクリートの壁になっていた。そうして上のほうは申し訳程度の芝というか草叢が傾斜になっていて、人が入り込まないように金網の柵で仕切られていた。
 その日、本来は休日であったが、期日の差し迫った仕事があったため、出勤をしていた。わたしの仕事は所謂エンジニアという奴であった。

 今日は幾つかの、実験データをまとめなければならなかった。昨夜、友人としこたま呑んだ酒が残っている所為で、あまり爽快な気分ではなかった。出前の昼食を、事務所で食べ終えた私は、階下の実験室に降りていった。なぜなら、休みの日まで気の会わない上司と、話をする気にはなれなかったからだ。今日出勤しているのは、自分達のグループだけなので、広い実験室は貸切状態であった。
 窓際に、幾つか椅子を並べると私は、膝を伸ばしてそこにすわり、手を頭の後ろに組んで少し伸びをした。目黒川は、いつもと違ってひどく増水していた。昨夜はすごい豪雨だったのである。しかし、今日は打って変わって、とても良い天気であった。川の流れは速くなっていた。そこには木っ端だとか様々なものが流れていた。
 そうして私は、川の向こう岸の傾斜した草叢のうえに一匹の犬を見つけた。どこからかそこに入り込んだのだろう、前足の上に頭を乗せて気持ちよさそうに眠っているようであった。ブラインド越に見える空は、見事に澄み渡っていて、辺りは陽の光が眩しいほど明るかった。なんと平和な光景なのだろう、私はぼんやりそんなことを考えていた。

 だが、その時、あの犬が何かに驚いたように急に起き上がったのである。もしかしたら、蜂でも飛んできたのかもしれない。そのとたん、犬が足を滑らしていた。あわてて、草叢に爪を立てようとしたようであるが、きっと昨夜の雨で草が濡れていたのだと思う。そのままずるずると、斜面を滑り落ちると、川面に落下していった。極く短い時間であったと思うが、私は、その犬が四つの足を空中で虚しく動かしているのを見ていた。

 私は、最初その犬が流れに身を任せながら、何かにでも掴まって、下流に流されていくのだろうと思っていた。しかし、川に落ちたその犬は、相当びっくりして気が動転していたのだと思う。必死な様子で、猛然と泳ぎ始めたのである、もちろんのことだが犬掻きであった。しかし、なんと、上流へと向かって行ったのである。その犬は、私の目の前からゆっくり左の視界へと移動していった。

 私は、その時の犬の行動が可笑しくて思わず笑いそうになったが、すぐに心配になって、じっと川を眺めていた。

 しばらくすると、左手から、件の犬が流れて来た。頭を水に着けたまま、それはやがて私の視界から消えていった。

 先ほどと変わらず、辺りは明るかった。しかし、私は何かとんでもなく苦いものを噛み砕いてしまったような気がした。そうして、太い棘のようなものが、心の中に引っかかってしまったような、なんともいえない違和感を覚えていた。

 なぜ、あの犬は川下に向かって泳ごうとしなかったのだろう。だが果たして、自分達だって、向かっている先が間違いのないことだと言い切れるのだろうか。私は、灰色の流れを見つめながら、そんなことを自問自答していた。

<完>

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