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第一章 夏の日

 「達彦、いいかげんに起きなさいよ」
 階下から、母の声がした。今日は島崎一家が訪ねてくる日であった。そのために、達彦は久方ぶりに実家に泊まりに来たのであった。それにしても、こんなに早くから起きることもなかろう、忙(せわ)しないことだと達彦は思った。階下の母の、真由美は間もなく来るはずの来客を控えて、ひどく張り切っていた。父の潤一郎は、先ほど真由美が淹れたコーヒーを飲みながら、新聞を手に取っていた。達彦は、カーテンを開けたが、パジャマを着替えるでもなく、再びベッドの上に横になると、腕を頭の後ろで組んでいた。
 佳子は十九歳になっているはずだった。それはそうだろう、自分だって二十九になってしまっているのだから。達彦は改めて時の経つはやさに感慨を覚えていた。佳子が東京に行ったのは、小学校三年の時だったから彼女は八歳だったはずである。自分が、大学に入った年であった。
 あのときは大変だったと、そんなことを思い出していた。
 当時、達彦達一家は札幌近郊のある町に住んでいた。小さな軒先が連なる、下町であった。そこは、実に様々な人種といえるような者達が住んでいる一角であった。昼間から、ふらふらしているような、男がいた。土木工事をしているらしい、気の荒い男達がいた。水商売の女もいた。もっと怪しげな女もいた。所謂、筋の者とも言われるような男もいたが、幹部ではなかったようである。
 達彦の父潤一郎は、当時そこの地区の中学校の教師をしていた。気さくで人当たりの良い父は、皆からは信望があつかったようで、尚且つその職業から一目おかれる存在であった。そのため、年は若かったが、町内会の副会長をしていた。町内会長は、通称源爺と呼ばれている、まことに性格の温厚な方であった。そうして、潤一郎は彼の片腕として皆が認める存在であった。つまり、町内の揉め事の調停などには、出張る場面が多かった。とはいっても、それほど大した揉め事があるわけではなかった。

 達彦達たちの家からそれほど離れていないところに、関谷という家があった。一年ほど前に引越しして来たが、周りとはまったく付き合いをしない家であった。奥さんは、夕方になると化粧をして出かけていた。旦那らしい人はといえば、ほとんどパチンコ屋に入り浸っているという話であった。
 初めは、謎の一家であったが、いつしか自然と、彼女の家の様子が噂で流れ始めていた。彼女は、街中にあるKというスナックのママだそうである。最初の旦那とは別れて、今は新しい男と内縁関係になっていた。娘が二人いたが、それぞれの連れ子だったとのことである。だが彼女の娘は実の娘ではなかったそうである。さすがに、その辺の詳しいいきさつを知る者はいなかったが、ただその娘は、いじめられているという噂であった。
 女どもは、あれは継子(ままこ)いじめだねと話していた。
 当時の私は、内縁とか継子とか言葉の意味はよく分からなかったが、それでもいじめられているのだから佳子が継子なのだろうと思っていた。佳子と初めて言葉を交わしたときの印象は今でも忘れられない。
 それは、私は、大学受験の最後の追い込みに必死になっているときであった。夏だから日は長かったが、それでもそろそろ薄暗くなり始めていた。その日、担任の先生と、進学のことでいろいろ突っ込んだ話を終えた私は、親友の谷川のところに寄っていた。夕食を一緒にどうぞと、谷川の母から進められたが、家には何も云ってこなかったのでと固辞した。担任との話は、志望校の決定の話であった。自分の希望している大学は、今の実力ではかなり厳しいとのことであった。彼は、ランクをひとつ落とすことを強く勧めたが、私は考えを変える気はないということを彼に伝えた。彼は私の決心が固いことを知ると、やるだけやってみろと云った。そのかわり、これからの残りの時間は必死になって取り組むこと、結果の泣き言は聞かないと云った。私が、そのことを約束すると、彼は出来るだけのことはするといってくれた。いつもとは違う帰り道を、将来の自分はどうなっているのだろうと、そんなことをぼんやり考えながら私は足を進めていた。

 街外れに小さな社(やしろ)があった。何度かここを通ったことがあるのでそこは見知っているところであった。社の隣合わせに公園があったが、名ばかりの公園であった。なぜなら、ブランコと鉄棒の遊具があって、かろうじて公園の体裁を整えてはいたが、たたの原っぱといったほうが正確ではなかったろうか。大体このあたりは人家が少ない、祭りのときは大勢の人が集まるが、普段は利用する者などほとんどいなかった。あたりは急に暗くなり始めていた。それまで、のんびり歩いていた私も、そろそろ、急いで帰らなければと思い始めていた矢先であった。
 私の目の前に、突然鞠が転がってきた。目を上げると、女の子が目の前に立っていた。
 「それ、私の、返して」
 その子は私の見たことのある、関谷の佳子であった。遠くからしか見たことはなかったが、真近でみる彼女はなぜか、強烈な印象を私に与えた。一つには、ひどくやせこけていたことである。もう一つは、やたら目がおおきかった。おまけに、その目はギスギスしたものが、感じられてひどく全体がアンバランスに感じられた。もしかしたら、わたしがその鞠を取ろうとでも思っているかのような彼女の態度であった。私は、自分がいったいどのような表情を取るべきか一瞬戸惑ったが、とりあえず笑顔を取り繕って、彼女に鞠を差し出した。
 その、鞠を彼女はひったくるように、私の手から取った。
 私は、初めそのまま帰るつもりであったが、こんな時間に少女を一人のままにしておくことは、出来ることではないと気が付いた。私は、どうしてこんな時間までここに居たのか、聞いてみた。
 「家を出て行けといわれたから」
 彼女は、ぶっきらぼうにそう答えた。
 「でもね、だからといってずっとここにいるつもり?」
 私は、幾分不快に思いながらそんなことは、押し隠して、できるだけ優しく、私は彼女に聞いた。
 しかし、彼女は、頑(かたく)なに帰りたくないと言い張った。
 私は、なんて物分りの悪い頑固な女の子なんだと、少し腹がたってきた。実際のところ、私だってこんなところで、そうそうぐずぐずしている訳にはいかなかった。私は、帰ろうといって、彼女の手をつかむと、引きずるように歩き出した。しばらく、そのまま歩いたが、急に彼女はこらえ切れないかのように、嗚咽を漏らした。私は、さすがに気持ちが萎えた。
 「ごめんよ、だけど、帰らない訳にはいかないだろ」
 彼女は弱々しく、うなづいた。初めは、私の強引な行動に、抗議しているのだろうと思ったが、彼女の仕草からそうではないと感じ取っていた。鈍感な私でさえも、彼女が家に入る時の気持ちは想像できた。
 私が、彼女を玄関に送り届けた時、さすがに彼女の母は、気になっていたのだろう、まだ家にいた。私は、簡単にいきさつを説明すると、私のうしろに隠れていた彼女を前に押し出した。母親は、私に愛想笑いをしていた。そこを離れた、わたしはしばらく気になって立ち止まっていた。
 思っていた通り、玄関の奥からヒステリックな母親の声が聞こえて来た。そして、私はそこを離れて自分の家に向かっていた。

 それから、しばらくしてあの事件が起こった。関谷家の娘、もう一人の夏樹という子であったが、彼女の大切にしていた縫いぐるみが紛失した。家族の者は、佳子を疑って厳しく詰問した。だが、彼女は知らないといいはるばかりではなく、なぜ自分を疑るのかと、反抗的な態度に及んだそうである。気の短かった件(くだん)の父は、彼女をしたたかに殴った。彼女は、泣きながら家を飛び出した。関谷の母が、源爺のところに相談に来て話した内容の顛末(てんまつ)である。
 「警察に届け出るほどの大事ではないと思っていますが、なにぶん子供のことだし、なにかあっても困るので、近場だけでも探してもらえないでしょうか」
 都合の良い物言いであったが、関谷の母が源爺にそう頼んだ。

 いまだに佳子が戻らない。その話が会長から私の父のところに来たのであった。
 北海道の短い夏は、終わりに近づいていた。日は少しずつ短くなってきている。今ではもう辺りは少しずつ暗くなり始めていた。私は、そばでその話を聞いていた。そうして、少し心当たりがあるので、自分もいっしょに探して見ると父に云った。父は、それを許してくれた。

 私は、すぐに、この間彼女を見かけた社に向かっていた。きっとそこに居るに違いない、私はそう確信があったので、歩みを急がせていた。私が、そこに着いたときには、陽がだいぶん傾いていた。
 私が、当たりをつけていたブランコのところに彼女の姿はなかった。予想が外れた私は、どうしたものか、考えもまとまらずに呆然と立ち尽くしたのであった。だがその時、私は、すすり泣く女の子の声を確かに聞いたのである。彼女は、一段高い社の下の階段に座っていた。
 私は、彼女の前に黙って立った。一瞬、どのようにう声を掛けて良いか分からなかったからである。そうして結局のところ、私はこう云っていた。
 「皆が、心配している。だから僕と帰ろうよ」
 彼女は、手の甲で涙をぬぐうと、しばらく黙っていた。そうして、彼女は私の言葉を聞き分けた。それから、私たちは、二人で並んで家に向かって歩き始めていた。その時、初めて私はひどく腹が空いていることに気がついた。それはそうだろう、思わぬ事件の勃発で夕食はまだであった。そうして、私だけではなく、彼女も食事をしていないことに気が付いた。
 この前の母親の剣幕からみると、今日は帰っても食事が出るのかどうか、怪しいものだと思った。ついでのことに、少しくらい、関谷の家に心配させたってかまわない、私はそう思っていた。後で考えたら、ずいぶん、大胆なことをしたものだと自分でも思ったが、関谷の家に対する反発のようなものが自分の中にあったのだと思う。

 私は、お腹が空いていないか彼女に尋ねた。やはり、遠慮しているのだろう、彼女の反応は極めてあいまいなものだった。わたしは、質問を変えてみた。何か食べたいものはないかと。彼女は、私の方を向いてこう応えた。
 「ラーメン」。
 私は、その選択にいささか安堵した。なぜなら、そうは云ってしまったが、当時のわたしは、それほどの持ち合わせが、あったわけではないからであった。
 通り道に食堂があったはずである。その看板には食堂と書いてあったが、だが、のれんにはラーメンと書いてあったのを覚えていた。
 私たちは、その小さな店のテーブルに向かい合って座った。そこで、わたしは彼女の左目の下が青くなっているのに気が付いた。可愛そうだとは思ったが、思わず可笑しくて笑ってしまった。彼女は、私の笑った理由が分からずに怪訝な顔をしていたが、理由がわかって彼女も一緒に笑った。そのとき、私は初めて彼女の笑顔を見たことに気が付いた。
 注文を聞きに来た老婦人は、とても優しそうな人であった。彼女は迷わず「醤油ラーメン」を選んだが、私は好物の「塩ラーメン」を頼んだ。
 その老婦人も彼女の痣には気が付いたようだった。
 「あら、なんで怪我したのかしら」
 彼女は、健気に自分が転んで怪我をしたのだと言った。私は、ただ帰りが遅いので迎えに来たのだとだけ云った。
 「お嬢ちゃん、優しい兄ちゃんが来てくれてよかったね」
 彼女はもしかしたら兄妹と勘違いしているのかも知れないと思った。
 「すみませんが、できるだけ、急いでもらえますか」
 「お腹すているのね、はいはい、すぐ作りますよ」
 それから、私たちは暫く、黙っていた。待ちかねていたラーメンは、間もなく来た。お腹が空いていたからだけではなく、ラーメンは本当に美味しかった。
 ラーメンを食べながら少しだけ彼女と話をした。彼女の父は、もちろん本当の父のことであるが、ラーメンがとても好きだったそうである。彼女をいろんなラーメン屋につれていったそうである。その話をしているときの、彼女の目はキラキラと輝いていた。
 その、店を出るとき老婦人は私達に向かってこう云った。
 「また、ぜひ、いっしょにおいでください」
 帰り道で、私は、彼女にラーメンを食べたことは誰にもいわないこと、それともし聞かれたら私が見つけるまで社のところに居たと答えるようにと約束させた。私たちが、戻った時は町内の何人かが、私の家に居たが、とりあえず良かったということで、それぞれの家に戻っていった。彼女は、父が関谷家に送り届けた。彼女を、間近で見たのはそれが最後になっている。彼女とラーメンを食べたことは、両親にも話はしなかった。だから、私は夕食を二回食べることになった。しかし、若かった当時の私には、そのことは、まったく問題ないことであった。

 その後、彼女は父方の叔父の養子になることになった。そのことについては、潤一郎が佳子のために随分骨をおったようであった。夜、父が母にいろいろな経緯を話しているのを、私は聞くとも無く聞いてしまっていた。佳子の不幸は、そもそも彼女の母が、病気で亡くなったことから始まる。佳子の父は役所に勤めていて人の良い男であったそうだが、スナックのママと知り合いになった。やがて、彼女と結婚することになる。それが、現在の関谷の母である。だが不幸というのは重なるものである、それから、何年もしないうちに、佳子の父は交通事故で亡くなってしまった。実は、その時に、亡くなった父の兄の島崎伸道が彼女を引き取るという話が持ちあがったのだという。その叔父夫婦には子供がいなかったということであった。だが、関谷の母は頑として受け付けなかったという。これらのことは、父が友人の民生委員から聞いたことだそうである。
 父の話では、結局のところは関谷の母は財産が目当てではなかったかと云った。なぜなら、その後、彼女は旧姓に戻っている、そうして、現在の有様である。父は民生委員である友人とも相談したが、佳子のことを何とかしたいと母に云った。父は、初めに島村家に連絡を取った。叔父の伸道は、自分たちの気持ちに変わりはないということ、全面的に父にお任せするので、良いようにお願いしたいとのことであった。
 それから、いろいろ大変なことがあったようであるが、結局その話はまとまった。なぜなら、関谷の母のこだわりがやはり金だったからであった。その夫婦というのが、今日大澤家を訪れることになっている伸道とその妻の幸恵であった。そうして、その佳子もいっしょのはずであった。

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