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第五章 思い出の場所へ
「達彦君、それじゃあ申し訳ないけど、娘の案内のほどよろしくお願いする」
ホテルの前で二人を降ろしたとき、伸道にそう頼まれた。助手席に座っていた佳子は、二人に手を振っていた。車を発車させてから、達彦はそういえば佳子に行きたいところを聞いていなかったことに気づいた。
「ところで、どこか行きたいところがありますか、二時間余りですからそこそこのところは行けると思いますが」
「私が行きたいところは一箇所だけです、後は達彦さんにお任せします」
「その行きたい所ってどこですか」
「懐かしい場所よ、私がラーメンをご馳走になったところ、達彦さん覚えています?」
「ええもちろんです、覚えていましたか。でもあれはちょっと悪いことをしたのかもしれないなって今ではそう思っているんですよ」
「そうよ、私に口止めしたのね、でも私は約束を守ったわ、あれから誰にも話はしなかったわ」
「実は父や母にも話はしていないの、でも聞かれた訳ではないから、隠しているってことにはならないわよね、話をしたのは遼子っていう親友だけよ」
そういうと、彼女は茶目っ気たっぷりの表情をした。その笑顔を見たとき、なんて明るくなったのだと、達彦は感動している自分を感じていた。きっと、佳子は夫妻の手で大切に育てられたのだろうと思った。
「僕も引越しして来てから、何度かあの家の方へは行ってみましたが、ずいぶん変わってしまいました」
「もしかしたら、あのラーメン屋は無くなっているかもしれませんが、それでも良いですか?」
「ええ、その場所を、ただ見さえすれば、それでいいんです」
「ところで佳子さん、保母さんになるつもりだと云ってましたよね」
「ええ、私子供が好きだから、それにつらい時期があったでしょう、だからなおさら子供達を幸せにしてあげたい、そう思うようになったんです」
「そうか、佳子さんなら、素敵な保母さんになれると思いますよ。僕も園児になりたいくらいだ」
達彦は少し調子に乗ってそう云った。
「あら、それはおかしいわ」
「だって、達彦さんは子供のときの私にとって、突然現れた強い王子様だったんですよ。だから、やっぱりそれは変だわ」
達彦は、複雑な気持ちだった。素敵な王子様は嬉しい言葉であったが、「子供のときの私にとって」という言葉が引っかかった。確かに、今の自分は佳子に何かの関わりをもつ人間ではなかった。
佳子の中に存在しているのは、過去の自分であった。そのことに気づいたからである。
「そうか、そうだよね」
「しかし、何か不思議な感じがするよね、ここでこうして二人で座っているなんて」
「そう私も思うわ、でも達彦さん全然変わっていないのでちょっと可笑しかったわ」
「それって、全然成長していないってことかな?」
「いいえ、そうじゃなくて、あのときのままで年だけとったような感じよ」
達彦は、佳子がどういう意味でそういったのだろうと思った。そうして、彼女がちゃめっけのある瞳で自分を、じっと見ていることに気が付いた。
佳子は、自分が今とても自由になった感じがして、心地よかった。達彦と会うまでは、幾分気の重い自分に気が付いていた。もしも達彦が自分の思っていたような男でなかったら、子供の頃の大切な思い出が壊れてしまうことになる。
そうして、自分が大人になっている分だけその可能性が高いと思っていた。しかし逆に、思っていたとおりの男で、自分があのときのままの気持ちであったら、自分はあの時に呪縛されていたことになる、そう思っていた。
たしかに嬉しかった記憶ではあるが、それはつらかった思い出の裏返しでもあった。いずれにしても、佳子は楽しい選択をすることには出来ないと思っていた。そうして、どちらであっても自分はそれを乗り越えるつもりでここに来たのだと覚悟を決めていた。しかし、そのどちらでもなかった。そのことが、佳子の心を軽くしていた。
達彦は思っていたとおりの男であった。子供のときの彼は、頼りがいがあってやさしかった。そのときよりは、幾分頼りなげに感じた。
だがそれは彼が変わったのではなくて、自分が変わっているのだろうと佳子は思った。佳子は彼のことを好感したが、それは子供のときの印象とは別のものに感じた。
佳子は、彼を普通の一人の男として見ている自分に気が付いた。
「達彦さんは、どうして結婚なさらないんですか」
「いや、特別な理由はないんですが、なんとなくぼんやりしているうちに、こんな年になりました」
好きになった女性はいた。だが、結婚を考えるまえに、彼女は達彦の前から去っていった。それから、結婚したいと思うほど、好きになれる女性は現れなかった。そのことは、女のほうでも微妙に感じ取るのだろう、いつも深い仲に進展することがなかった。
「達彦さんなら、きっとこれからいい人が現れると思いますわ」
佳子にそういわれて、達彦はちょっぴりほろ苦いものを感じた。
カーラジオからは『揺れる想いが』が流れていた。
「ZARDは好きですか」
達彦が聞くと、佳子はうなずいていた。
思い出の場所にはもう間もなく着くはずであった。