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第七章 赤レンガにて
達彦は、どうして彼女をこの場所に誘ってしまったのか、いざここに来てから、僅かばかりではあったが悔悟の念を感じていた。確かにここは、自分の一番のお気に入りの場所であったし、何かにつけてはよく来る場所であった。だが、それだけではない、自分にとって特別な場所であった。それは奈々子との思い出の場所であったからである。
彼女は、達彦が学生時代に好きになった、唯一の女性であった。彼女と知り合ったのは、大学のあるサークルの催しであった。彼女は、一つ年上の社会人であった。彼女とは、ずいぶんあちこちに飲みに行ったし、そのことは若い頃の自分の最も楽しい思い出ででもあった。しかし、彼女にはつきあっている男が居たことを知ったのは、三年目のある秋の夕暮れであった。そうして、その年の終わりに、彼女は突然勤めていた店を止めて、達彦の前から姿を消した。そのことを思い出すたびに、今でも達彦は砂をかむ様な寂寞感に捕らわれる。
しかし、最近になって、ふと当時の彼女は自分のことをどのように思っていたのであろうと思うようになっていた。自分は、年下で学生であった。自分は、ただ彼女と居ることが楽しいとしか思っていなかったが、その自分は彼女の目からみると、頼りない男ではなかったであろうか。確かに当時の自分は、先のことなど何も考えてはいなかった。その溝の存在を、当時の自分はまったく見えていなかった。
「達彦さん、どうかして」
佳子の声で、我に返った。
「いいえ、ここに来たのは、久しぶりだったもので、どうです、落ち着いて中々良いところでしょう」
「そうね、私も気に入ったわ」
「それは、良かった」
二人は、池のほとりを歩いていた。カップルも何組かは見かけていたが、観光客らしき人もそう多くなくて、閑静な感じがしていた。二人は、ベンチに腰掛けた。
「わたし、今回こちらに来て本当に良かったと思っています。懐かしい場所も見ることが出来たし、お忙しいところ付き合ってくださってありがとう」
「いいえ、とんでもない。僕もとてもたのしかった」
そうして、達彦は思わず言おうとした言葉を飲み込んでいた。
「貴女のような、素敵な人といっしょに過ごすことが出来て」
それを、声を出しては云わなかった。
「これから、定山渓に向かうんでしたよね、佳子さん運転するんでしょ」
「ええそうよ、私、こう見えても、結構遠出したりするんですよ」
「すごいなあ、和歌を嗜(たしな)み、颯爽と車を奔らす。若い男の子の憧れの的じゃないですか」
「あら、そんなことなくてよ」
しかし、佳子は勅使河原のことを思い出していた。彼は、決して若い男の子などではないと。
達彦は、もっと彼女と一緒にいたいと思った。できるならば、定山渓まででも送って行きたかった。だが、それは出来るわけはないことだった。
二人は、立ちあがると歩き始めた。
「佳子さんに会うまで、どんな女性になっているのかなって、ずっと思っていました」
「どうでした、期待通りでしたの」
「余りにも変わっていたので、驚きました」
達彦がそういうと佳子は、彼の目を覗き込みながら
「どんな風に変わって?」
微笑みながら、そう問いかけていた。達彦は、言葉を選びながら、こう答えた。
「僕が、思っていたよりもずっと、大人になっていました」
佳子は、あらと言うような顔をしたが、嬉しそうであった。
「ちょっと、うれしいな」
「僕は、どうですか?」
「あまり、変わっていなかったわ?」
それを、喜んで良いのだろうか、それとも悲しむべきなのだろうか、達彦は、心の中で、その言葉を反芻(はんすう)していた。
その時、二人を包むように風が吹き抜けていった。
佳子の、微かな化粧の匂いが、達彦の鼻をくすぐっていった。
達彦は、その時、佳子と離れたくない、そう思った。
二人の時間は、もう残り少なくなっていた。