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第八章 別れ

 達彦は、車の外で一礼をすると手を振っていた。伸道は上機嫌であった。開けていた車の窓から、大声でこう叫んでいた。
 「いろいろ、ありがとう、達彦君、がんばりたまえよ」
 走り去る車を見送ると、達彦はなにか大切な忘れ物をしてしまったような気がしてならなかった。佳子は車に乗るとサングラスをしていた。最後は、自分を見ていたと思うのであるが、彼女の視線を伺うことはできなかった。そのことに、気が付いて、そうだったと達彦は心残りの理由を納得していた。彼女の、瞳はとても魅力的だった。十年経って、彼女は眩しい女性に変身していた、改めて達彦はそう思った。

 「良い、結婚式だったわね」
 幸恵がそう云うと、伸道もうなずいていた。
 「あなた、いつかは、佳子だって嫁に行くんですよ」
 「だめだ、嫁にはやらん、婿をもらえばいいんだ」
 「いまどき、そんなことを云うと、顰蹙(ひんしゅく)をかいますよ。どちらにしたって佳子の、気持ち次第でしょ」
 「新婦の父親は、涙ぐんでたな。俺もああなるのかな」
 「お父さんの、性格ならぐっとこらえると思うわ」
 佳子がいった。
 「案外、わからなくてよ」
 幸恵が云う。
 「佳子、今好きな人がいるのか」
 「あら、お父さんがそんなことを聞くなんて酔っ払っているのね、それは親子でもノーコメントよ」
 「ははは、そうか、酒を飲めば酔うのはあたりまえだろ。ところで達彦君は良い男になっていたな。佳子は美人だから、彼に言い寄られたんじゃないか」
 「言い寄られたなんて、今時そんな言い方は可笑しいわ。でも残念ながらそんなことはなかったわ、達彦さんすごい紳士だったもの」
 だが、そう云って、佳子は、何が残念だったのだろうと思った。達彦が、自分に好意を持っていることは、感じ取っていた。女性なら、当然気が付くことであった。だから、会話の中で連絡先を聞き出そうとしていることが、感じ取れて、正直歯がゆい気持ちはあった。しかし、結局時間切れになってしまっていた。そうして、佳子がそのことを気づいていることを、達彦はまったく気づいていないようであった。なんと、不器用で、臆病で、素朴な男だろうと佳子は思った。そうして、心の中でこう叫んでいた。
 「達彦の、いくじなし」
 後ろの父と母は、まだ話しに夢中であった。それから、その言葉を佳子は実際に、声をだしてつぶやいた。胸のつかえがおりて、すっきりしていた。でも、私の、望んでいた区切りが、これでできたのだと、佳子は思った。

 あとは、これからの北海道の旅行を楽しむことと、親孝行をすることだと思った。佳子は、アクセルを少し踏み込んだ。夕焼け空が目の前に広がっていた。定山渓は、その空の下にあるはずであった。

 達彦は、自分の部屋に戻っていた。佳子たちを、送った後、実家で夕食を共にしてきた。このマンションは、会社から近かったのと、周りが閑静だったので入居していた。
 風呂上がりの、達彦は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと栓を開けた。こうやって一人になってみると、今日一日の出来事が夢のように感じられた。そうして、佳子のことを思い出すと、少しだけもの寂しい気分になった。会う前にはこんな気持ちになるとは、思ってもみななかった。だからといって、以前の自分にもどることなどは出来ることではなかった。彼女への連絡先を知りたいという気持ちを伝えるまえに、別れの時間が来てしまった。唯一、自分のブログの名前を教えることは出来た。だから、彼女がそのことを思い出してくれたら、まだその一本の糸で繋がっていると、達彦は思った。それは頼りなくとても細い糸であったが、唯一の希望の明かりでもあった。
 達彦は、テーブルに向かうとパソコンの電源を入れた。

 そうして、ブログに記事を書き込んでいた。

 「私は、人間の心とは不思議なものだと思う。なぜなら、誰でも自分の心は自分のものだと思っているだろう。だが、本当にそうだろうか。たとえば、誰かを好きになったり、嫌いになったり自分で決めているのだろうか。自分で決めているような気になっているだけであって、実際は、そうではないと思う。だから、誰かを好きになったときには、心を盗まれてしまったようなそんな頼りない自分を感じる。そして、それを相手に伝えていなければ、もっと切なさが募る。それなら、相手に伝えれば良いのにと誰でも思うのでしょう。しかしながら、ことはそう単純には運ばないものなのです。古今東西、恋というものはそういうものでした。だからこそ人はその恋に悩ましくも憧れるのではないでしょうか」

 タイトルを、いろいろと考えてみたが、結局「風薫(かおる)日に思ったこと」とすることにした。佳子は風と共に自分の前に現れた女性であった。そうして、自分の写真ライブラリーの中から、『シラン』の花を文章に挿し添えた。もちろん、それは美しい花であったが、それだけではなく花言葉が「君を忘れない」だったからである。

 文章を書き終えると、達彦は一つ、深いため息をついた。
 果たして、佳子はこの文章を目にすることが、あるだろうか。
 特別であった一日は終わろうとしていた。
 達彦は、こんな静寂の中で物思いに耽るのは、随分久方ぶりのような気がしていた。だが、また明日からは、仕事に追われるあわただしい日々が始まるはずであった。

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