HOME > 小説の森 > 風の棲む街 > 第十二章
第十二章 誕生祝い
詩織が、自転車を止めたのはP店の駐輪場であった。この店はT市で最も大きなショッピングセンターだった。詩織は1階に向かった。そこには母がテナントとして出店しているブティックがあった。だが、今日はそこに行くのが目的ではなかった。実は、今日は特別な日だった。母の誕生日なのであった。それで、ささやかながら、二人だけのバースディパーティをすることにしていた。
そうして、母には内緒で注文していたバースディーケーキを受け取りに来た。その店の沙希さんは、母の親しくしている仲間の一人であった。
「いらっしゃい、待っていたわよ」
「ちょっと遅くなっちゃって。初めは学校の帰りに寄ろうと思っていたんだけど、結局家に帰ってから来たの」
「それは、ごくろうさんね。もう箱に入れてあるから持っていけるわよ。それから、これは私からのお祝いよ」
そういって彼女が差し出した包みには、グリーティングカードが添えられていた。
「ありがとう、沙希さん、母もきっと喜んでくれるわ」
「店に顔出して行くの?」
「いいえ、ケーキのことは内緒だし、仕事の邪魔しても悪いから、離れて様子を見ていくだけにするわ」
「そう、じゃ楽しいパーティをね、咲子さん今日はいっぱいやるのかな」
「きっと、やるんでしょ」
「そうだわね、そのうち遊びに行くから。また、飲むわよ」
「お待ちしています、また、彼の話聞かせてね」
「あら」
「じゃあね」
「帰り、気をつけなさいよ」
「大丈夫よ」
詩織は特別な理由や用事がなければ、店に顔を出すことはなかった。なぜなら母も、私が店に来ることはあまり喜ぶことではないと思っていたからだ。言葉で旨くいうことは出来ないけど、それは、それぞれの世界だと思うからだった。つまり、自分は、学校に用事もないのに母が来るのは嬉しく思わないと同じことではないかという気がしていた。
だから、遠くから様子を一目見て変えるつもりであった。だが、その売り場で、詩織は思わぬ光景を目にすることになった。
店は、母と美由紀さんという若いスタッフの二人でやっていた。ほとんどは、その美由紀さんが客の応対をしていたが、その時は、母が売り場に立っていた。そうして、話していた相手はおよそ、その場にはそぐわない男であった。なぜなら、母の店が扱って居るものは女性用であった。そうして、ターゲット層はいわゆるヤングアダルトといったところであろうか。そんなに若くない男だった。その男は、それほど老けてはいなかったが、店のターゲット層には外れ過ぎていた。
だが、母はその男と、親しげにしかも嬉しそうに話していた。嫌悪感は覚えなかったものの、詩織は良い感じはしなかった。しばらく二人を見ていたが、話は終わりそうになかった。詩織はそっと、その場を離れた。
誰だろう、あの男は?詩織はやはり気になった。母よりは少し年上のような感じがした。後でそれとなく聞いてみよう、そう思った。
詩織は、早く家に帰って準備をしようと思った。ケーキの箱をかごに入れると、元気良く走り始めた。丁度坂を折りきったところであった。前を一人の男が歩いていた。その男をよけようとしてハンドルを切ったら、思いもかけず、そこに大きな石ころがあった。急ブレーキをかけたが、遅かった。前輪を乗り上げてしまって、それから、自転車ごとえd詩織は転倒してしまった。
まずは、恥ずかしさで顔が真っ赤になるのを感じた。身体の方は、幸い膝を打ったくらいで、他はなんともなさそうであった。だが、ケーキの箱がかごから飛び出していた。少しつぶれているだけだが、中はおそらぐちゃぐちゃになっているだろう。せっかく母の為に買ってきたのに、そう思うと、くやしくてなさけなくて、思わず涙が滲んでしまった。
その様子を、びっくりしたように、さっきの男が見た。カーキ色のジャンパーを着た、若い男であった。
「あのう、大丈夫。どこか怪我してない?」
「いいえ、それは大丈夫なんですけど。ケーキがひっくり返ってしまって」
「ケーキ?」
「今日、母の誕生日なんです」
ようやく、その男は、ことの内容を理解したようであった。そうして、しゃがみこむと自転車を起こしてくれた。
「あれ、チエーンが外れてしまっているよ。ちょっと重症だな、工具がないと直せない。君の家にモンキーとかスパナとか無い?」
「それ、何ですか?」
「工具のことさ、ネジやナットを回すもの」
「それなら、家に工具箱があるわ」
「そうか、君の家はどこ?」
詩織は、自分の住所を云った。ここからは歩いて15分くらいになる。
「これじゃ、走るのは無理だから。家まで送ってあげるよ」
「いいんですか?そんな、ことまでしてもらって」
「僕をよけようとして、ころんだんだろう。責任感じているんだ」
その男は、そういうと微笑(わら)った。ものすごく人懐こい表情であった。
「本当にすみません、助かります」
「いいんだよ。あ、わるいけど、ちょっと待って」
そういうと、その男は携帯を取り出した。
「ああ、宗方ですが、すみません急用が出来て、店には少し遅れていくかもしれませんがよろしくお願いします」
「どこかに、勤めているの」
「ああ、アルバイトしているのさ」
「ほんと、迷惑じゃないんですか?」
「大丈夫だから、さあいこうか」
宗方という男はそういうと、自転車を抱えた。丁度、陽が落ちるところであった。並んだ二人の長い影が歩道に伸びていた。
「君、高校生」
「ええ、H校です」
「へえ、そうか優秀なんだ」
「そんなことないですよ」
H高は地元でも、一番の進学校であった。
「ほんとに、アルバイト先大丈夫なんですか」
「いいから、気にしないでよ」
「そうですか」
詩織は、申し訳ないことをしたと思った。アルバイトなら、遅れたら時給が減らされるに違いない。そのことを、考えて恐縮した。
「どこの、アルバイトですか?」
「『北の陣屋』という店さ、知ってる?」
そこは、居酒屋であった。結構、はやっている店だと聞いたことがある。
「ええ、知っているわ、昼は仕事していないんですか?」
「学生だよ」
「そうしたら、K工大ですか?」
「そうだよ」
学生で、夜居酒屋でアルバイトしている男、詩織は珍しい男だと思った。
「ケーキ残念だったね」
「ええ」
「お母さんは、ケーキのこと知っていたんだ?」
「いいえ、母には内緒にしていたの。だからなお更残念だわ」
「そうか、でもこのことを良く話したら。お母さんはきっと喜んでくれると思うよ。なぜなら、ケーキの形はつぶれても君の気持ちは、変わらず伝わると思うよ」
そう云ってもらって、詩織は幾分気を取り直すことが出来た。
マンションの扉を開けると、詩織が出てきた。
工具箱を渡すと、宗方は手際よくチェーンの外れを直した。
「これで、よしと。元々チエーンが緩んでいたんだと思うよ。張りも調整してあるからもう大丈夫と思う。じゃ、よい誕生祝を」
「ほんとうにありがとうございました。助かりました」
宗方は、手を上げると急ぎ足で歩き始めていた。
詩織は、その後姿を見つめながら、名前くらいちゃんと聞いた方が良かったと思った。ただ、宗方という苗字はしっかり心に留めていた。
「それは、大変だったわね。でも私は詩織の気持ちがとっても嬉しいのよ。彼の云ったとおりよ」
そういったのは母だった。
「それにしても、親切な方ね。どんな感じの人?」
「なんか、飄々とした感じの不思議な人だったわ」
「居酒屋のアルバイトというのも変わっているわ。どんな人か一度会ってみたいものね」
「やっぱり、何かお礼をしたらいいかしら?」
「べつに必要はないと思うけど、それは、あなたに任せるわ。彼はお礼を当てにしていわけではないと思うから」
そう云ったのは、詩織が彼に会いたがっている様子が感じられたからであった。もう子供ではないから、いちいち細かいことまで口を挟むことはやめようと、それは咲子が以前から決めていることであった。
「ところで、母さん、今日店に行った時見かけた男の人は誰?すいぶん親しそうだったけど」
「ああ彼ね、森崎さんていうの。札幌に住んでいるんだけど、仕事上のお付き合いがある人なの。いろいろお世話になっているわ。出張でこちらにきたので、顔を出してくれたの。あの後、札幌に向かったわ」
「ふーん、もしかしてあの人独身?」
「そうだけど、どうして?」
「いいえ、ただ、ふと思っただけ」
咲子は、内心詩織の反応に驚いていた。森崎は本当に仕事上の付き合いをしているだけであった。だが、彼には付き合ってくれないかと先日云われたばかりであった。自分には、受験を控えた娘がいるから今とてもそのような考えにはなれないと断わった。しかし、彼はいくらでも待つから、真剣に考えてみてくれないか、そう咲子に云った。だから、今回出張に来たのも偶然ではなく、自分の誕生日に合わせて来たのだと、咲子は感じていた。そうして、森崎は咲子に誕生祝を置いていった。それは、ほんのちょっとしたものであったが、森崎の気遣いであることは気が付いていた。高価なものだったら、自分は受け取ることができなかったからだ。詩織は、きっと私の態度になにかを感じたのだろうと思った。
宗方は、急いで歩いていた。店には多少の遅れになるが、まあしかたがなかっただろう。それにしても先ほどの女の子、眼鏡をかけていたが、とても綺麗な子だった。眼鏡を外して少し化粧をしたら、口笛でも吹きたくなるような女に変身するにちがいない。それとなんていうか、あの位の年の娘にしては珍しいくらいの落ち着きを感じさせた。どうしてだろうと興味を持った。せっかくだから、名前とか連絡先とか、それはちょっと行き過ぎかもしれないが、聞いてみればよかったのにという気がしないことはなかった。だが、それはやはり自分の主義に反すると思った。下心のある親切は、親切にはならない、そうと思ったからである。それにしても、自分は何と惚れっぽいのだろうと思った。彼女は、まだ高校生でどうやら受験生らしい、それに真面目そうだった。自分の棲む世界とは関りのない娘なのだと思った。
|目次|次章|