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第十三章 お菓子

 詩織は、『北の陣屋』の暖簾をくぐった。
 「いらっしゃい」
 威勢の良い、声に迎えられた。店のはっぴを来た、若い女が出迎えた。
 「あのう、客じゃないんですけど、宗方さんに渡してもらいたいものがあって来たんです。これを渡しておいてほしいんですが」
 「宗方君ならもう来ているよ。いま呼ぶからちょっと待ってて」
 感じの良い女だった。客じゃないと云えば、面倒かられてもおかしくはなかったはずであった。
 それと詩織は、意外に思った。先日の宗方との一件は、七時前のことだったので出勤は七時からだと思いこんでいた。今はまだ六時になったばかりであった。
 程なく宗方が出てきたが、詩織の顔を見るとひどく驚いた様子であった。
 「誰かと思ったら君か、どうしたんだい?」
 「この、前のお礼をしたくて、お菓子を持ってきたの。皆で食べてもらえば良いかなって」
 「いやあ、気を使わせちゃって悪いな。いま仕事中で話できないから、よかったら君の携帯番号教えてくれないか?」
 そう云うと、宗方は詩織の目を覗き込んだ。そうして、どうぞという様子で、首を少し傾けた。
 詩織は、つられる等に番号を少し早口で云った。宗方は、右手の人差し指を額にあてると分かったよといった。その仕草が可笑しくて詩織は思わず微笑んだ。
 宗方は、詩織から菓子の入った箱を受け取ると、もう一度ありがとうと云った。
 「悪いけど、見送りは出来ないから」
 そういうと、宗方は慌しく奥に戻っていった。
 詩織は、外にでるとふっと息をはいた。来て良かったのだろうか?自分でそう問いかけてみたが正直なところわからなかった。でも、来てしまった。それで、良かったんだ、そう自分でいいきかせていた。

 詩織が、宗方を訪ねようと思ったのは昨夜のことだった。自転車のお礼が云いたい。確かにそうではあったが、もう一度宗方に会ってみたい、そんな気持ちが少し自分のなかにあったのは間違いない。自分は、宗方のことを好きになったのであろうかと思った。そうではないと思ったが、どうしても彼のことが気にかかった。そんなもやもやしているのなら、いっそのこと会いに行けば良いと思った。だが、やはり顔をあわせるのはためらわれた。だから、お礼のお菓子を届けることにした。それで、自分の気が済むか、もしかしたら彼から連絡があるかもしれない。それは、成行で良いとそう思っていた。
 しかし、顔を会わせてしまった。すこし、どきどきしたけど何ということはなかったではないか、そう思った。携帯の番号を教えたから、きっとかけてくるに違いない。そのことは、すこし嬉しいことだった。詩織は、自分の心が軽くなったことを感じながら、家への道を歩いていた。

 「宗方、さっきの娘(こ)すごく可愛いな、彼女か?」
 「そうじゃないんです、この前自転車が故障したのを直してやったので、お礼を持ってきたんですよ。お菓子だそうなんで、店長からも皆に持ち帰るように云っておいてくれませんか」
 「そうか、悪いな。皆には云っておくよ」
 その前島という店長は、年は二十六のちょっと苦みばしった顔の男だった。だが、その外見に似ず面倒見が良くて気性もさっぱりしていたから、皆からは兄貴と慕われていた。
 この店は、いわゆる正社員といわれる者は店長と板長の小林という男の二人だけで、あとはパートとアルバイトであった。
 アルバイトの宗方は初め客あしらいを担当していたが、今では店長に認められて調理場の方を手伝うことが多かった。客が立て込んでくると、そこは目の回るような忙しさになった。
 女の子が、宗方に会いに来たという話は店長が云う前に仲間の間には伝わっていた。芳樹は皆から冷やかされた。

 パートとアルバイトは総勢八名であった。うち女の子は、三島瑛子と奈良遼子の二人であった。三島は先ほど詩織を迎えた女で背はあまり高くなかったが、明るくて愛嬌のある娘だった。いわば、皆のムードメーカーのような存在であった。一方の奈良は背がすらしとして、居酒屋には勿体無いような整った顔つきをしていた。若い男は彼女目当てで来るものも多いとの噂であった。二人とも芳樹と同じ年だった。

 女の子は十時になると上(あが)ることになっていた。いつものように彼女達が、前島の所に挨拶に来た。初めに三島が来て、少し遅れて奈良が来た。
 「お疲れ様でした」
 「おう、ご苦労さん。奈良お菓子は持ったか?」
 「いえ、わたし余り好きじゃないので、いいです」
 そう云うと、前島の脇をすり抜けて出口に向かって行った。それを見た前島は、眉をしかめるとため息をついた。誰も、気が付いていないと思うが奈良は宗方のことが好きだったのである。
 奈良は昼は専門学校に通って、夜この店で働いている。少し大人しい性格だがよく働いた。実は、前島は奈良にほのかな好意を抱いていた。だからこそ、彼女の気持ちにはすぐ気が付いたのである。

 以前、店の中で彼女と二人だけで話したことがある。
 「俺は、別に奈良に干渉するつもりはないが、店長として云っておかなければならないこともある。お前は、宗方に好意を抱いているようだがそれは、やめた方がいいんじゃないか。あいつは大学生だ。いずれこの街を、出てゆく男だ。そこのところは、良く考えたほうが良い」
 一応は納得したようだったが、そうそう思い切ってはいないのだろうと前島は思った。人の心も知らないで、前島はそうつぶやくと、、もうひとつため息をついた。
 だが、仕事のほうは待ってはくれない。前島は気持ちを切り替えることにした。
 「熱燗いっちょう」
 店に中に、前島の声が響きわたった。

 女の子が帰ってからも、その日は忙しかった。
 最後の客が、出て行くと芳樹たちは、大きく伸びをした。だが、店長と板長は跡かたづけがあった。
 
 前島と小林に挨拶をすると、若者達は次々と帰っていく。
 「お疲れ様でした」
 「ご苦労さん、明日も頼むぞ」
 「了解でーす」
 宗方も、前島に挨拶を済ませると通用口から外に出た。隣の店との間の細い路地をぬけると、表どおりへ抜けた。いつもながらの見慣れた夜の景色が広がる。一緒に出た、先輩の笹島という若い男はそこで煙草に火をつけた。
 「若い娘が訪ねてきたんだって?」
 「いや、この前、自転車を修理してあげたから、そのお礼を持って来ただけなんです」
 「そうか、でもきっとお前に気があるんだろうな」
 「そうですかね」
 「でなきゃ、わざわざここまで来ないさ。それとな、奈良がお菓子を持って帰らなかったぞ、なぜだろうな?」
 そういうと、笹島は意味ありげに笑った。
 「さあ、どうしてですかね」
 芳樹はそう云うしかなかった。
 「まあ良いか、お疲れさん。また明日もな」
 「お疲れ様でした」

 芳樹は、笹島の言葉を繰り返していた。奈良が自分に好意を抱いているのではないかとは、うすうす感じていた。笹島も気が付いたのか。もしかしたら、奈良と付き合うことになるのかもしれない、前からぼんやり芳樹はそんなことを考えていたが、詩織の出現は一つの波紋を芳樹の心にもたらしていた。
 ウィークディだからもう人通りは少ない。宗方は、詩織のくれた箱をしっかり抱えていた。彼女の顔を思い出すと、気持ちがなんとなく和むのを感じた。ジャンパーのポケットからメモしていた紙片を取り出した。歩きながら、携帯にその番号を打ち込んだ。まさか、真夜中に電話するわけにもいかないだろう。そのうち電話しよう。俺は今ピュアに幸せだ、芳樹はそう思った。

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