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第二章 茜色の空

 僕は、照れ隠しのように、ここに来た目的を話し始めていた。
 「実は、大澤先生から頼まれてきたことがあるんだ」
 僕は、件(くだん)の書類をバックから取り出すと、テーブルの上に置いた。
 「ここに、説明が書いてあるけど、進路についてフリーな形式で良いから書いてくれということなんだ。明日持って来てくれと云っていたけど、大丈夫?」
 「ふうん、いよいよ最終段階ということね。分かったわ、明日持って行くから。ところで、寺島君は進学するんでしょう。本州に行くつもり?」
 「いいや、一応札幌を考えているんだ。でも、そう都合ゆくかどうか。それより里崎さんはどうするの?」
 
 その時、入り口をノックする音が聞こえた。彼女の母であった。
 「いらっしゃい。寺島さんでしたよね。恭子から話を聞いたことがありますよ。優秀なんでしょ」
 「お母さん、よけいなこと言わなくていいから、下に行ってよ」
 「はいはい」
 彼女は、僕ともう少し話をしたい様子であったが、それでもジュースと菓子をテーブルに置くと、ごゆっくりと云って部屋を出て行った。
 「私ね、進学にしていたけどまだ少し迷っているんだ。この町に就職したら親孝行かなと思ったり。本当は、この町を出てみたいのか、そうでないのか自分でも、自信がもてないの」
 「両親は、どう云っているんだい」
 「本音のところでは、そばにいてほしいと思っているんだろうけど、私の好きにして良いといっているわ」
 「そうか」
 僕は、そういうと、先ほど初めて、会った両親の顔を思い浮かべた。彼女は、一人娘である。そばに置いていたいと思うのは当然なのだろう。

 「寺島君、前から一度聞いて見たいと思っていたけど、谷川君とはどうして仲良くなったの」
 これは、何度聞かれた質問だったろうか。バスケットボール部の主将でちょっと目立ちたがり屋の彼は、女生徒に絶大な人気を誇るスポーツマンであった。かたや、真面目なことだけがとりえ、強いて云えば成績だけはそこそこであったものの、とにかく目立つこと無いこの僕が、彼の親友であるということは、学園の不思議のひとつになっていたことを、僕は知っていた。彼の取り巻きには、ちょっと不良っぽい連中が多かったが、僕はその彼らとも肌が会うことも無かったから、付き合いもなかったのである。なにより、僕自身も不思議に思っていたのであるから、世話の無い話であった。
 「知ってのとおり、僕はスポーツが苦手だろう」
 別に、彼女の同意を求めたつもりではなかったが、そこで彼女は大きくうなづいていた。僕はそこまで納得してくれなくても良いのにと、幾分気分を害しながらも言葉を続けた。
 「だから、もともと彼には、憧れみたいなものを感じていたんだと思う。きっかけは、たまたま僕が他の学校の不良に絡まれていたときに、彼のグループがそばを通りかかったことなんだ。そうして、その後のことなんだけど、僕のお袋と彼の父が小さい頃の同級生だったということが分かった。それで、つまり家族ごとの付き合いが始まったというところかな」
 「へえ、そんないきさつがあったの。谷川君て人気あるよね。私の友達でも、彼に熱を上げてる子結構いるのよ」
 その言葉を聞いて、僕は、彼女自身が谷川を好きなのかもしれないと思って、正直なところひどく落胆した気持ちになった。その僕の表情を、読み取ったのだろうか、彼女はこう云った。
 「でもね、寺島君て目立たないけど、注目している子もいるわよ。彼女の意見によると、大学に行ったら結構変身するタイプだって、どうかしらね?」
 彼女はそういうと、微笑みながら僕の目を見ていた。そういう云われ方をして、フォローしてもらったとは思ったが、でも実際のところ、今の自分には応えようがないことだった。
 それより、僕は落胆した自分自身の気持ちに驚いていた。いままで、恭子にこれほど強い感情を持つとは思っていなかったからだ。

 「どうなんだろう、僕は少しは自分を変えたいと思ったことは、あるけど、やっぱり将来の自分なんて分からないな」
 「そうよね、私の将来の自分がどうなっているのかなと思っても、分からないもの」
 その時、僕は口に出しては云わなかったが、きっと恭子は素敵な女性になっているだろうと思っていた。そうして、なにか、その瞬間僕達はとても親密な関係になったような気がして、束の間ではあったが、幸福な気分に浸ることができた。

 そのとき、窓の外から声が聞こえてきた。
 「恭子ちゃん」
 彼女は、窓のところにいくと身を乗り出した。
 「あら、ねえさん」
 「友達が来てるんだって」
 「ええ」
 「珍しいわね、男の子なんだって」
 「そうよ」
 「ボーイフレンド?」
 「そんなんじゃないってば、ただの同級生よ」
 「そうなの、ちょっと顔を見せなさいよ」
 「物好きね」
 そういうと、彼女は僕を手招きした。僕は、彼女の隣に行くと下を覗いた。若い女性が、こちらを見上げていた。
 「あら、結構良い男じゃないの。あんたも隅に置けないね」
 「だから、違うっていったでしょ。学校の用事で来てくれたのよ」
 「そうですか、そうですか」
 「だから、ちがうってば」
 恭子はむきになって、応えていたが、僕はその若い女は、恭子をからかっているのだと分かった。
 若いとはいっても、おそらくまだ二十をちょっと超えた位ではないかと、彼女のしゃべり方からそう思った。そうして、化粧は少し濃かったが、凄い美人だと、それが僕が彼女に感じた第一印象であった。正直僕は、その時彼女に見とれてしまった。
 だから、それから二人が何かしゃべっていたが、そこのところは飛んでいた。
 そうして、その若い女の声で我に返っていた。
 「いまから投げるからね、男の子、ちゃんと受け取りなさいよ」
 そういうと、彼女は手に持っていたものを、放り上げた。
 運動神経のまったくだめな僕であったが、それでも、なんとかそれを上手く掴み取ることができた。
 それは、赤い大きな林檎であった。
 それを、見届けると、若い女は、手を振った。
 「二人で、それを、食べなさいよ」
 そうして、彼女は背を向けると、向こうに歩き出していた。
 僕は、呆然と彼女を見送っていた。そうして彼女が、隣の家に入って行くのを見ていた。
 「いやあ、驚いたな、何あの人。そういえば、ねえさんって言ってたよね」
 「隣の娘よ、私の幼馴染よ。私より年が上だからねえさんって呼んでいるけど、本当の姉さんみたいなものよ。それより、林檎よこしなさいよ、下に行ってむいてくるわ」
 そう云うと、彼女は林檎を持って、部屋を出て行った。
 一人部屋に取り残された、僕は、そのまま下を見ていた。そこは、裏庭というか向かいの家の裏庭とも境を接していたから、中庭といっても良かったかもしれない。鉢植えの花が沢山並んでいた。僕は、花の名前はわからなかったが、それらを見て楽しい気持ちになった。普段、あまりそんなことを考えたことなどなかったのに、今、特別な場所に居るせいだろうか少しばかり感傷的になっている自分を感じた。
 隣の家は、居酒屋のはずであった。彼女はその店で働いているのだろうか、なぜとは云えず僕にはそうは思えなかった。なぜなら、彼女は、ひどく華やかな雰囲気を身に纏(まと)っているように感じたからである。

 程なく、彼女は戻ってきた。そうしてその手には、皿があって切り割りした林檎が盛られていた。
 彼女が、どうぞといったので、僕は添えられていた爪楊枝で、林檎の小片を突き刺すと口に運んだ。彼女も、それから爪楊枝を手に取った。
 今度は、彼女はテーブルの向かいに座っていた。でも僕達は、向かい合うことはなく二人とも窓から見える空に目をやっていた。
 二人とも、しばらくは無言であった。
 それから僕はこう云った。
 「この林檎、初恋の味がするね」
 「あら、どうして」
 「だって、甘酸っぱい味がするから」
 それを聞いて、彼女は笑い出した。というより、笑い転げたと云った方が良いだろう。
 僕が、呆れるほど暫し彼女は笑い続けた。
 やがて、彼女は目尻の涙を指でなぞると、僕に云った。
 「寺島君て、冗談云うんだ」
 僕は、彼女が笑わずに居られなかった理由を、理解した。
 つまり、僕は学校では、いつも真面目な顔ばかりしていて冗談などをいう男には見えなかったということであろう。その僕が、思いもかけないことを云ったというわけである。
 だが、僕は決して冗談を云ったつもりはなかった。だから、僕は云った。
 「別に、冗談ではないよ。本当にそうおもったんだ」
 それでも、彼女はやはり、可笑しいと云ってまた笑った。
 でも正直、僕は悪い気はしなかった。彼女のそばにこうしていることが、すごく嬉しいと感じていたから。

 「さっき、窓から外を見ていたけれど、とても良い場所だね」
 「私も、とても気に入っている風景よ。私が、ここを離れたくないと思う理由の一つはここにもあるの」
 「ふうん、僕も分かるような気がする」
 僕達は、もう林檎を食べ終わっていた。
 「ねえ、窓のところに行く?」
 「もうすぐ、陽が沈むんだね」
 「そうね、ところで、なぜ大澤先生が家に来なかったか理由が分かる」
 「えっ」
 「家には、来づらい理由があるの」
 そう云うと、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。

 そうして、僕は彼女の云ったことの意味を考えていた。まさかと思った。彼女がその原因なのであろうか。そう思うと、一瞬、身を切られるような、切なさを感じた。だが、僕を見つめている、彼女の瞳の色を見たとき、そうではないと思った。なぜなら、謎めいてはいたが、彼女の表情には屈託がなかったからである。そうして、ふと、先ほど見かけた女性がその原因ではないか、確信はなかったがそう思った。

 暫く、僕達の間には沈黙の時が流れた。
 そうして、彼女は口を開いた。
 「また、遊びに来る?そのとき、教えてあげる」

 僕は微かな風の流れを感じた。なぜなら、隣の彼女のふんわりした匂いが、僕の鼻腔をよぎっていったからである。
 窓から、見える西の空は素晴らしくきれいだった。少し雲があったが、茜色の空が僕の目を驚くほどの鮮烈さで射っていた。その時、突然、僕はきっとこの光景をずっと忘れることはないだろうと思っていた。

 それから間もなく、僕は彼女の家を後にしていた。西の空が、少しずつ明るさを失いつつあった。陽が沈むところであった。
 僕は、家に向かう道を急ぎながら、今度いつ彼女の家を訪問することが出来るだろうか、そんなことを考えていた。

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