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第五章 マドンナ

 僕は思うのだが、僕の父と母は、結構夫婦仲が良いほうではないかと思う。休みにはたいがい買い物に行くが、二人はほとんど連れ立って歩いていた。僕は子 供の時からそういう風景をみなれていたから、それが当然のことだと思っていたが、自分が大きくなるに従ってそうではないということを少しずつ感じ始めてい た。僕の両親の年代の夫婦では、かえって珍しい方の存在であったと思う。
 その日、僕はわが町の最大のショッピングセンターのP店に居た。

 いつものことであるが、僕がこの店の中をふらつくといえば、本屋かCDショップかシネコンの予告を覗くというところが定番であった。父と母は服飾のフロ アーを見てから、食品売り場に行くと云っていた。帰る時には携帯に電話が来るはずであった。いつもより、今日は時間が長かった。いいかげん、あちこち見飽 きていた僕は、少々時間をもてあましていた。それで、さっき見てしまったCDショップにもう一度、買うつもりはなかったが入ろうとした時である。
 そこで、マドンナを見かけた。知らない男といっしょだった。年は僕と同じくらいであろうか、もしかしたら年下かもしれない。二人はCDの棚を見ながら何か話をしていた。向こうは、僕に気づいていなかった。僕はその場を、そっと離れた。
 胸がすこしどきどきしていた。彼氏なのだろうか、僕は胸の中でそんなことを思ってみたが、実際にはさっきの様子からは何ともいえなかった。もし、彼氏なら、そう思うと僕は心の中にぽっかり穴が開いたような気がしていた。

 一階の食品売り場に下りていくときに、ようやく携帯が鳴った。母からだった。

 僕達は、車の中にいた。
 「今日は、随分長かったね」
 僕が云った。
 「母さんが、気に入ったのが、なかなかみつからなかったんだ」
 「そうなんだ、結局は見つかったの?」
 「それが、見つからなかったのよ、まだ日があるから、機会を改めて他の店を探すことにしたわ」
 母は、趣味のサークルに入っているが、来月旅行に行くことになっていた。それに着ていく、服を買いたかったのだということだった。
 「良祐、進路のほうは、決めたのか」
 父が云った。
 「いいや、まだだよ。今度模擬試験があるんだ。その結果でいよいよ決めることになると思うんだ」
 「そうか、頑張れよ」
 そういった、父はもう違う話題で母と話を初めていた。
 僕は、腕を組んだまま、あの男は誰なのだろうと、ぼんやり考えていた。だが、早々にそのマドンナと思わぬところで話をすることになった。

 月が変わって、10月になっていた。さすがに、吹く風も冷たく感じられるような季節になっていた。歩道を歩くたびに踏みしめる落ち葉の音が足元でカサカサと鳴った。秋は少しずつ深まっていた。
 僕は、 図書館へ向かう道を急いでいた。本当のところは、決して急いでいたわけではない。少し寒くて、とてものんびり歩いているような気分ではなかった のである。僕の家から、図書館まではそう近くはなかったが、歩いていくには遠すぎるというほどの距離でもなかった。僕は本の入ったバッグを小脇に抱え、わ き目も振らずに歩いていた。
 だから、図書館に着いたときは、やれやれという感じであった。僕は、今日が期限の本を返却しに来たのであった。僕は休みのときは、時折図書館にくること があった。誰でもそうだと思うが勉強しなければならない時に、どうしても気の乗らない時があるものである。僕は、気の乗らない場合が圧倒的に多いのである が、そんなとき、図書館では、周りの雰囲気から結構ひきずられて、能率のあがることがあった。
 だから、図書館で本を借りることはめったになかった。だが、先日息抜きにたまたま手にした小説が、とても面白そうだったのである。その借りた本を今日返 しに来たのであった。僕は、返却カウンターに本を置くと。閲覧室に入った。今日は本の返却だけであったが、わざわざここまで歩いて来て、真直ぐ帰るのも ちょっと芸の無い話であると思った。だから、僕は、科学系の雑誌を手に取ると、テーブルに着いた。三十分位その本を見てから、僕は席を立った。
 僕が、丁度図書館から出ようとしたとき、入ってきた女の子が居た。驚いたことに、マドンナだった。
 「あら、寺島君」
 「あれ、相川さん」
 「今帰るところなの?」
 「そうなんだ」
 「僕、本を返しに来たところなの。だから直ぐ帰るから、よかったらちょっと待っててくれない。どう?」
 「いいよ、外で待っているよ」
 僕は、この偶然に感謝していた。あのマドンナと二人だけで話ができる。僕は寒さをまったく忘れていた。

 「ごめんね、待たせちゃって、悪かったかしら?」
 「そんなことないよ、それよか、この前こそ迷惑かけちゃって」
 「いいえ、僕は何とも思っていないわ。でも、野瀬さんあなたのことを失礼な奴だといって、少し怒っていたわよ」
 「でも、悪気があった訳ではないからね」
 「それは、本当は分かっているのよ」
 「ところで、相川さんは自転車で来たんだ。これからどこかへ行くの?」
 「ええ、母に頼まれてここに寄ったけれど、友達の所へ行くの」
 「そこ、どこ」
 彼女は、町の名前を告げた。そこは、僕の家の向きとは正反対であった。
 「じゃ、歩きながら。話をしようか」
 「でも、寺島君良いの?家はどこなの」
 僕は、自分の住所を彼女に告げた。
 「あら、それじゃ、反対でしょ」
 「いいよ、多少遠くなっても、男だから。帰るのはどうってことないよ」
 「そう、じゃ歩こうか」
 彼女は、もちろん自転車に乗らず、手で押し歩いていた。
 「ところで、この前君を見かけたよ」
 「あら、いつ」
 「先週さ、P店で、CD売り場で見かけたんだけど、男の子といっしょだったよ」
 「あら、彼ね僕の従兄弟なの、遊びに来ていたの」
 その言葉を、聞いて、僕は何か気持ちの軽くなった嬉しさを感じていた。
 「ドライブの好きな一家で、よく遊びに来るの」
 「そうだったんだ」
 
 「それより、寺島君、最近の注目株よ」
 「どういうこと?」
 そう、僕は云ったが、成績のことを云っているのは分かっていた。僕の通う高校では、上位30位が成績優秀者として発表されるのはいわば伝統のようなもの になっていた。どんな、生徒にとってもその30位に入ることは一つの勲章であった。1,2年の時は、僕はまったくそのメンバーに名を連ねることはなかった が、3年になってからはどうした訳か、僕は常連になっていた。常連といえば、マドンナは1年生の頃から常連であったが、最近は僕とマドンナはいいところで 競(せ)っていた。
 「成績のことよ、私追い越されそうだわ」
 「そんなことないよ。たまたま、この前はヤマが当たって運が良かったんだ」
 「寺島君、急に目立ってきて、なにか特別なことでもやっているの」
 「いいや、ただ、前からやっていた通信添削を身をいれてやっていることくらいかな」
 「そうなの、でも凄い、勢いがあるね」
 「それは、なんとなく自分でも感じるんだ。つまり結果がでると、何となく張り合いを感じてもっと頑張るっていうか」
 「それは、そうよね。そういうことを指す言葉があるんだけど、なんて云うか知ってる?」
 「いいや、知らない、なんて云うの」
 「快楽反応というの」
 「え」
 僕は、驚いて彼女の顔を思わず見てしまった。まさか彼女から、そんな刺激的な言葉を聞こうとは、夢にも思っていないことであった。彼女は、その僕の驚きの表情を読み取って、かえって戸惑ってしまったようであった。
 「ちがうの、勘違いないでね。快楽反応というのは。人間は自分にとって、心地よい状態を得ることがあったら、そのために切磋琢磨努力をすることをいとわないと、そんな意味なの」
 そう云ってから、彼女は押し黙って顔を、赤らめていた。僕は、そんな彼女をとても可愛いと感じた。そうして、彼女の云った「快楽」という言葉にもひどく 刺激されていた。僕は彼女をすこし困らせたいという気持ちに捕らわれていた。そうして、僕は自分でも、思っても見なかったことを彼女に云っていた。

 「今度の模擬試験、準備はどうだい?とても大事な試験だから、僕も気合が入っているんだ。それで、ひとつ勝負をしてみないかい」
 「あら、おもしろそうな話ね、乗ってもいいわよ」
 「もしも、僕が君に勝ったら・・・」
 「勝ったら?」
 「僕と、デートしてくれる」
 彼女は、驚いたように目を見開いていた。そうして、暫くしてこう云った。
 「いいわよ、でも驚いたわ、寺島君がこんなこと云うなんて」
 「こんなことを。間違っても云うタイプの男ではないと思っていたんだろう」
 「そうよ、ただし一つ条件をつけるわ」
 「何だい?」
 「場所は、僕の家よ」
 それじゃ、デートといえるのかとも思ったが、それでも良いと思った。
 「うん、分かったよ」
 彼女は、僕の目を覗き込むように、僕の顔を見た。そうして、なにか面白いことでも思いついたのであろうか、ニコリと笑うと目が輝いた。
 「ところで、寺島君、僕が勝ったらどうするの?」
 「そりゃあ、君の云うとおりさ」
 「いいのね?」
 僕は、何を云われるのだろうと思ったが、もう引くことはできなかった。
 「もちろんさ」
 「じゃあ、一日、手伝いをしてもらうわ」
 「手伝い?」
 「そうよ、いいんでしょ」
 「ああ、分かった」
 彼女の友達の家は、目の前であった。
 「ここまでつきあってくれて、ありがとう」
 「僕のほうこそ、楽しかったよ」
 「そうよね」
 「今度の、模擬お互いに頑張ろう」
 「何だか、楽しみな試験になったね」
 「そうだね」
 「それじゃ」
 「それじゃ、また」
 そこで、僕達は分かれた。日は短くなっていた。後ろから照らされた、僕の影法師は長かった。僕は道を歩きながら考えていた。どうしてあんなことをいって しまったのだろう。よくよく,考えて見れば彼女のあの言葉がきっかけになったのは間違いないが、小ずるい自分の思惑も考えにあったことを自分でも感じてい た。ようするに、サッカーでよく使うモチベーションって奴であった。今度の模擬試験は、重要であった。それにむけて、なんとか意欲を高めようとしていた。 彼女と競争することは、僕にとって最高の動機付けになったのである。そんな、計算高い自分があったが、でも内容そのものは非常にピュアだと、自分では思っ ていた。それにしても、よくあんなことを、云えたものだと、思い出すと、やはり気恥ずかしかった。

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