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第八章 居酒屋『朋』

 週末だけあって、こんな時間でも結構酔客の姿が多かった。宗方芳樹は、急ぎ足で歩いていた。今日はバイトの金が入った。それに、明日はゆっくり寝ていられる。だから、今日は楽しく飲めそうだと、気持ちが軽かった。
 暖簾をくぐると、店に入った。
 「あら、芳樹君。今終わったところ?」
 「ああ、そうなんだ」
 「ご苦労さん。酒にする?」
 「いや、今日はビールを貰う」
 「あら、金が入ったのね」
 「正解です。姐さんも何か飲んでよ」
 「あら、うれしいこと云うわね。じゃ、私もビールにするわ」
 「それじゃ、僕が注ぐよ、乾杯だね」
 女将の、栄子はグラスを二つと、ビールを1本カウンターの上に置いた。
 「乾杯!」
 グラスの淵を合わせた。
 最近の居酒屋は、ちょっと洒落ていてもちろん若者の姿も多い。だが、この店は時代に取り残されたかのような、実に目立たない店であった。料理も、おでんが店の顔になっているが、その他には、干物のあぶりものとか、佃煮とか、決して手の込んだ料理などには、お目にかかることの無い店であった。
だが、芳樹はこの店をひどく気に入っていた。客は年配の常連が多かった。そのせいか、女将と客のやりとりがこなれていて、肩肘の張らない店であった。まるで家で飲んでいるように気を使うことはなかったが、様々な客が居て、それなりに旨いつまみがある店であったから、いわゆる、しぶい魅力があったのだと思う。
 芳樹がこの店を知ったのは、研究室の飲み会のあとで、教授に付いてきたのが、初めてであった。教授は、この店の常連の牽きで、ここに来るようになったようであった。
 女将は、とにかくざっくばらんな性格であった。芳樹はそれもあって、何度か一人でこの店に来た。女将は、もちろん、芳樹がこの地元のK工大の学生であることを覚えてくれていて、金が無いときなどは、ビールを奢ってくれることもあった。そうでなくとも、いつも勘定を、ことさら安くしてくれた。それに、遅くまで開いていることもうれしかった。バイトが終わってからでも飲むことができた。
 そのこともあって、芳樹はこの店の、ちょっと変わってはいたが、今では常連の一人といってよかったであろう。
 以前は、前の女将の朋子と栄子の二人でやっている店だったが、朋子もいい年になり引退することになって、栄子がそのまま、この店を引き継いだのであった。そのときからの呼び方が変わっていない。女将になっても、栄子は姐さんと呼ばれていた。

 店には、他に一組の男女が居ただけであった。だが、二人はどう見てもカップルとしては、不自然だった。男は、スーツ姿の痩せた年配の男だった。女は、水商売の女には見えたがずっと若かった。そうして、服装がそれほど、はでではなかったから、かろうじてこの店に収まっている、そんな感じだった。
 その男が、芳樹に話しかけた。もうかなり酔っているのは、分かった。
 「なに、君は学生か?」
 「そうです」
 「今から、飲もうってのか、随分遅すぎないかい?」
 栄子が口を、挟んできた。
 「バイトが、終わって飲みにきたのよ」
 「そうか、君は、苦学生か?」
 「そんな、ことないですよ。ただ、自分の飲み代は、自分で稼いでいるだけです」
 「今時は、苦学生なんて、死語になっているんじゃないかしら。でも芳樹は偉いわよ。世の中には、親のすねかじり放題の馬鹿息子も多いからね」
 栄子が云った。
 その男の隣に居た女は坂井亜希であった。彼女が云った
 「ねえ、スーさん、その学生さんに、なにかごちそうしてあげたら」
 「そうか、姐さん、ビール1本出してやってくれ」
 芳樹は、そのスーさんと呼ばれた男越しに、亜希の顔を見た。入る時ちらっと、見ただけであったが、改めて正面からみると、凄い美人であった。彼女は、芳樹を見てにこりと笑った。
 水商売の女だとは、分かったが、まだ、若いせいだろうか、崩れた感じはしなかった。自分より上だろうが、せいぜい2つか3つそのくらいだろうと芳樹は思った。
 栄子が、その新しいビールを注(つ)いでくれた。そうして、芳樹に目配せをした。
 「どうも、ご馳走様でした。返杯です」
 そのスーさんという男に、まず注いだ。それから彼女に、そうして、その時彼女と視線が合った。芳樹は、何ともいえないぞくっとした気持ちになった。彼女の魅力に惹き付けられたのだろうか、そう思った。
 だから、なにか話をしたい。そんなきっかけが欲しかった。だが、それからは二人は、また話しをはじめたから、言葉を交わす機会はなかった。
 間もなく二人は席を立った。亜希は出るとき、姉さんとそうして芳樹に小さく手を振った。

 店は、芳樹と栄子の二人だけになった。
 「ねえ、姐さん。あの二人はよく来るの?」
 「二人で来るのは、めったに無いわよ。でも、彼女、亜希って云うんだど、時々来てくれるの」
 「ふうん、馴染みというわけ?」
 「そうでもないけど、亜希の母さんと、前の女将が古いつきあいなの。そうそう、亜希の母さんは居酒屋をやっているのよ。『花車』って云うんだけど知らない?」
 「うーん、どこかで聞いたような気がするんだけど」
 「ほら『仲鮨』の隣の店よ」
 「ああそうか、分かった。あの店ね。僕はまだ入ったことがないんだ」
 「そうね、学生さんが行くような店では、ないものね」
 その店は、居酒屋ではあったが、小料理屋の風情であった。云えば、高級居酒屋というところであったろう。
 「でも、亜希さんっていう人、その居酒屋で働いているわけではないんですか?」
 「そうよ、彼女『ディープ・ブルー』というスナックに勤めているわ」
 「ふうん、まさかそこのオーナー、チェスが好きだということはないですよね?」
 「えっ、なんで?」
 「昔、チェス専用に『ディープ・ブルー』というスーパーコンピューターが造られたことがあったんです」
 「そうなの、でも私は知らないわ」
 「そうですよね。ところで、あの男の人は?」
 「ああスーさんね。たしか医薬品関係の営業をしているはずよ、本名は菅原っていうの」
 「亜希さんって、いったい幾つなんだろう?」
 「女の子の年って、難しいわよ。確か去年成人式だったはずだわ」
 芳樹は、驚いた。自分より1つしか上でなかった。
 「この店に一人で、来ることはないの?」
 「そうね、一人で来ることはめったにないわね。でも、お腹がすいた時とか、飲み足りないときには、店の娘と来ることもあるわよ」
 そのときである、入り口が開けられた。そうして一人の男が、暖簾を分けて顔を出した。
 「姐さん、まだ、いいかい?」
 「あら、神沼さんじゃない。いいわよ、どうぞ」
 五人ほど、男達がどやどやと入り込んできた。芳樹はそれを、潮(しお)に、立ち上がった。
 店をでると、さすがに人影も少なくなっていた。
 芳樹の下宿までは、結構な距離があった。歩いたら、急いでも二十分以上はかかっただろう。だが、芳樹は酔った身体のほてりでも醒ますように、ゆっくりと街灯の灯る夜の闇に足を踏み出した。
 亜希にまた、会いたいと思った。いつか、会えると、そんな気がした。また、この店に通う、楽しみが増えたとそう思っていた。

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