HOME > 小説の森 > 見栄

 私の家と家族ぐるみで親しくさせていただいているY家のご主人はかつて、地方新聞の記者をしていたことがあった。
 いまでこそ、腹が出て多少くたびれてはいるが、仲々の好男子で背が高かった。はっきりした、数字までは聞いたことは無かったが、180cm位はあったのではないかと思う。

 その彼が、あるとき、取材でかなり遠くの町まで行くことになった。
 社の車はあいにく空きが無かった。取材費はぎりぎりに絞られていたから、公共機関を使うことにした。

 最寄の駅に降りた彼は、駅前に停車していたバスに乗った。田舎のバスにしては、乗客はそこそこ多かった方ではなかろうか。子供と、老人がほとんどであったが、若い女性が一人居てなかなかの美人であった。彼は心の中で、今頃一人で家にでも帰るところなのだろうかとなどど考えていた。
 間もなくバスは動きだした。彼は窓の外を流れる景色を見ながら、久方ぶりに乗ったバスに気持ちがとてもうきうきしてくるのを感じていた。若い女性が居たからというわけでもないが、バスに乗ったのは久方ぶりのことであったからである。
 彼の実家は田舎で、子供のころはバスで通学していた。そうして、今走っている道はそのころ通った道によく似ていた。

 会社の経営は芳しくなかった。
 だからという訳でもないが、編集長とは事ある毎に、意見が衝突してストレスの溜まることだらけだった。
 だが、今は一瞬ではあってもそんな、浮世のウサを忘れることが出来た。そうして、彼の視線は、窓の外の景色と時折は件(くだん)の女性の横顔に当てられていた。

 しばらくして、目的の停留場に着いた。
 彼は、運転手に料金を払うと、子供の時のように、勢いよく飛び降りた・・・。彼自身は、そのつもりであったが、実は昇降口の上の縁にしたたかに頭を打ち付けていた。
 彼は自分の背が伸びていたことを、すっかり忘れていたのである。

 道に降り立った彼は、余りの痛さに涙が滲んでくるのを感じた。
 だがそのとき彼は、バスの中の乗客が、窓に顔を押し付けてじっと自分のことを見ていることに気が付いたのである。そのなかに先ほどの若い女性の顔があった。
 彼は、痛みをこらえて必死に作り笑いをした。
 バスが出発して乗客の顔が見えなくなると、彼は頭に手を当てて道路にしゃがみこんだ。そうして、思いっきりこう叫んでいだ。
 「あいたたたたたたた」

 人間というのは「見栄」を張る生きものである。

<完>


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