HOME > 小説の森 > 夏の恋人 > 第十章
第十章 旅立ち
相変わらず日差しが強かったが、風もあった。聡子の長い髪が風に吹かれていた。店の前では、三人が立っていた。
「おじさん、本当にいろいろ、お世話になりました」
「それは、こちらで云うセリフだよ。予定ではまだあちこち回る予定だったんだろ?」
「正直に云えば、そうなんですけれども、充分北海道の旅は、満喫しました」
「旅の思いでは、忘れないよね?」
聡子は、純哉の目を見ながら云った。純哉は一瞬、まばたきをしていた。
「それと、期待は、していないけど、純哉君のレポートと計画書楽しみにしているよ」
「当てにされると、つらいとこもあるけど、今の僕の気持ちは、当てにしてくださいといいたい気持ちなんです」
「じゃ、やっぱり当てにするかな」
隆造にしては、珍しく、おどけたものの言い方をした。
「いずれにしても、向こうの指定日前には、必ず着けますから、それまでは、絶対に回答しないでくださいね」
「分かっているとも。ところで、これから、一直線に東京に向かうのかい?」
「そのつもりです、そうでないと、スケジュールはきつくなりますから」
「そうすると、まずは、これから苫小牧を目指すわけか」
「そうですね、そこからフェリーですね」
「それと、なんか、こちらのことで、すっかり迷惑をかけたような」
「だから、気にしないでください。僕の意思なんですから」
「そうか、まあ、こちらに来ることは、ないんだろうけど、もしあったら、ぜひまた飲みたいもんだね」
「そうですね、でも、おじさん、年だから、酒はそこそこにして、控えめにしたほうがいいと思いますよ」
「年下の、純哉君にお説教されるとは思ってもみなかったな」
「聡子ちゃん、心配だよね?」
「そうよ、お父さん。まだまだ頑張ってくれなくちゃ」
「そうだな、純哉君にも、いろいろ発破かけてもらったから、心入れ替えてということかな」
三人の笑顔が揃った。
「新メニューの完成楽しみにしていますから。完成したら連絡くださいよ」
「来月には、デビューさせるつもりでいるよ」
「そのうち、こちらからも連絡とりますから」
「分かった」
純哉は、ヘルメットを手にとると、頭に被った。例によってサングラスをかけると、ちょっと粋なライダーに変身していた。エンジンを回すと、独特のレシプロ音が、辺りに響いた。
「それじゃ」
「さようなら」
「気をつけてな」
純哉は、手を挙げると、爆音を響かせて、走り去った。二人は、彼の姿が見えなくなるまで、じっと立っていた。
「あーあ、行っちゃったね」
「そうだな、さあ、店に入ろうか」
隆造は、気落ちした様子の聡子の肩をたたいた。
昼間は暑かったのに、夜になって風がひんやりとしていた。あたりは静かだった。父の隆三は、下でひとりで飲んでいるはずだった。外に飲みに出ることだけは、さすがに止めてくれたが、それでも、いっぱいやることだけは勘弁してくれということだった。
聡子は、机に向かって頬杖を付いていた。目の前には、ヘルメットがあった。たった、今日1日のために用意してくれたヘルメットだった。聡子に合せたヘルメットだから、記念にと置いていってくれたものだった。聡子はそれをじっと、見つめていた。
純哉が居なくなると、やはり寂しくなった。そうして、しばらく忘れていた、将来への不安が湧き上がってくるのだった。一度は、あきらめて札幌行きを決意した聡子であったが、純哉に会って、かえってそのこころがくじけた。いったい、自分はどうしたいというのだろう、保母になるという夢を忘れたわけではなかったが、純哉の傍に居たいと言うのが、自分の本当の気持ちだろう。純哉は自分の気持ちを分かってくれたのだと、思う。だからといって、そう、どうにかできるのであろうか。純哉が傍に居たときは、そんな気持ちにもなっていたが、いまは、とても心細い思いでいっぱいであった。
夜が更けてきたから、寝ようかなとも思ったが、やはり、そういう気持ちになれなくて、聡子はそのまま、ぼんやりしていた。
純哉は、フェリーの待合室に着いていた。走りづくめのかなり、きつい、行程であった。椅子に腰掛けると、大きく伸びをした。
先ほど、一緒に居た聡子たちとのことが、妙に遠い記憶のように思われた。あまりにも、いろんなことがあった。そうして長い、夜の闇を走り抜けて来た、その所為だと思った。
聡子は、今どんな気持ちでいるのだろう。きっと、心細い気持ちになっているのではないだろうか、それが、気にかかった。純哉は、携帯を取り出すと、メールを打ち込み始めた。
「こんばんは、まだ起きているかな?僕はいま、フェリー乗り場に付きました。『北の森』で過ごした、この数日は、僕にとって最高の時でした。あのことに付いては、僕も必死でがんばります。だから、聡子ちゃんは、残りの高校生活を大切にしてください。東京に着いたら、またメールするから。それじゃ、おやすみ」
最後の公園でのことに触れたかったが、やっぱりそうしなかった。メールを送ると、純哉は波止場に出てみた。夜の波間は、ひどく暗く感じた。波の音は、いつ聴いても、不思議な懐かしさのようなものを感じる。
純哉はひとりごとをつぶやいてみた。暗い夜の後には、明るい夜明けが来るのさ。頭の中は、すでに東京でのことを考えていた。そろそろ、フェリーに乗り込む時間が迫っていた。
目の前の、携帯が、メールの着信を告げていた。聡子は、携帯を手にとった。
メールを読むと、聡子はにっこり微笑んだ。なんと、さっぱりした文章だろう。甘い言葉は一つも無かった。でも、純哉の心は、充分伝わった。聡子は、そのメールをもう一度、読み返していた。そうして、心がすこし明るくなった。
今度こそ、聡子は立ち上げると、一日を終わることにした。下にいる父に、おやすみを云いに行った。
聡子にこたえて、隆造もおやすみを云った。
隆造は、手酌で飲んでいた。今日の夕食の残りの、ワカサギの天ぷらをつまみにしていた。
純哉が居ないと、さすがにちょっと、愛想もない。しかし、彼は隆造に希望と元気を与えてくれた。子供の時の彼はどちらかというと、大人しいほうであった。だが、今の彼は、しっかり自分というものを持った好青年になっていた。きっと、彼の新しい父親は、しっかりした人間なんだと思う。純哉はその新しい父のことを多くは語らなかったが、少なくとも避けてる様子は感じられなかった。
それより、なにかと出てくるのは智久兄だった。彼に一番影響を与えたのは、彼かもしれない。隆造は、その智久という兄がどのような人間なのだろうと興味を持った。だが、そこまで、考えて、隆造は思わず自分で自分を笑ってしまった。自分は、しがないラーメン屋の親父だ。その智久兄は、ある事業グループのトップリーダーであった。自分が彼のことを、考えるてみても、せん無いことであった。
それでも、酒の勢いがあった。一国一城の主であることだけは同じだと、それでもそうは思った。
ともかく、純哉はいろいろ骨を折ってくれるし、自分も頑張らなければと思ってはいた。いろいろ、思い悩んでも仕方が無い時もある。早く、新しいスープの完成を目指すのが、今やらなければならないことだ。隆造はそう自分に言い聞かせていた。
聡子だって、また少しずついつもの生活に戻っていくだろう。
純哉からの、書類は、1週間くらいで着くはずだった。とにかく、それを見てからのことだと思った。
目次 次章