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第二章 雨の日
先ほどから、降り始めた雨は、急に雨脚を強くしていた。涼一は、ぼんやり窓を眺めていた。雨はすでに、滝のように窓硝子を伝い流れ落ちていた。いつもながらの退屈な講義ではあったが、今日はとりわけ身が入らなかった。
翔子はいま、仕事をしているところだろう。雨が降っていることには気づいているのだろうか。どんな、気持ちで彼女は雨を見るのだろう。先週は誘っても、用事があるからと断られていた。そのことが、なんとなく気にかかって、殊更に気持ちが重く感じられてならなかった。
講義が終わって、ドアから押し出されるように、涼一は廊下に出ていた。ほとんどの学生は、次の講義室へと向かっていくようであった。だが、涼一は、彼らとは別の方角へと歩き出していた。
この大学の廊下はひどく暗い。だがそれはそれで理にかなっていたのだと思う。なぜなら、明るくする必要などなかったからである。廊下はあくまでも廊下である。それ以上の存在理由はないはずであった。もちろん店とか催し物会場ならそれは別の話になる。明るく快適であることは、必須条件であったろう。だが、大学の廊下などは本来の機能以外に何を必要としたであろう。つまらないことかもしれないが、涼一はこの大学の廊下が気に入っていた。自分の足音が、裸のコンクリートの壁に反響していた。ここを歩いていると、不思議と心が落ち着いた。そうして暗い廊下を通り抜けて明るい場所に出る時の爽快感が好きであった。
その廊下を歩いていくと、敬祐と出会った。彼とは中学時代からの長い付き合いである。二人が地元から近いこのK工業大学に揃って入学してから三年目に入っていた。
「おう、しばらくだな、これから講義か」
敬祐が云った。
「いいや、次の講義は面白くないからサボろうかと思っているんだ、でも午後の講義は実験なんで、どうしても受けなくちゃならないんだ」
「相変わらずだな、お前は。それはそうと、近々呑もうぜ」
「良いとも、俺のほうは来週バイト代が入ることになっているんだ、そのころになったらなったら電話くれよ」
「わかった、それじゃまたな」
敬祐が手を挙げると、そこで二人は、分かれた。
それから、涼一は学生課に行って、レコードとステレオの鍵を借りてきた。ラウンジに行ってその盤をステレオのターンテーブルに載せた。
この大学では、他人の迷惑にならないよう、ステレオはヘッドフォンで聴くことが義務図けられていた。それでも、こういった規則を破る輩はどこにでも居るものである。しかし、涼一は別に良い子ぶるつもりはなかったが、その決まりを一度も破ったことはなかった。なぜなら涼一は、ヘッドフォンで聴くほうが、SN比が抜群に良い、つまり音楽を聴く環境としては極上であることを知っていたからである。
涼一の最もお気に入りの『クール・ストラッティン』が耳の中に流れ込んできた。ソフアに深々と身を沈めながら、涼一は少しずつその音の中に入り込んでいった。そうして、しばらくは翔子のことを考えまいと思った。
「ねえ、雨が降ってきたわ」
真由美が云った。
先ほどから帳簿の整理をしていた翔子は、仕事の手を止めると立ち上がった。事務室から出て店先に向かう。硝子の扉から見える車道は、激しく雨粒が叩きつけられていた。店先にはアーケードが架かっていたが、跳ね返った水滴が歩道を濡らしていた。
「今日は、客が少なくて、張り合いがないわ、やっぱり、天気のせいかしらね」
真由美が云った。
「こんな、天気じゃ、しょうがないかもね」
翔子がそう云うと、真由美も納得したように頷いた。
「翔子、あんたは明日公休日だよね。ねえ、今日いつものところに行こうか、連中も行くっていってるんだ」
翔子は、もしかしたら今日は涼一から電話が来るかもしれないと思っていた。だが、真由美の誘いを断る気にはなれなかった。
この店は、化粧品を扱う専門店としては、この街ではもっとも大きくそして歴史のある店であった。
この店の中で真由美は一番のやり手の店員であった。彼女は、一つ年上の先輩ではあったが、それよりもずっと大人であるように翔子には感じられてならなかった。そうして、職場のなかでは、実際のところ一番仲の良い友人でもあった。兎に角、彼女のやることにはそつが無く、いわゆる無駄が無かった。
華やかな職場にあこがれて、この店に就職した翔子であったが、とても真由美のようにはできないと感じていた。一度真由美とそのことを、話したことがある。
「先輩みたく、自分の思うように、ばりばりなんでもやれたらいいなと、思うわ」
「そう、ただ私は私のやりかたで、頑張るだけよ。あんたはあんたの良さと、魅力があるから、そういう意味では、あたしもあんたがうらやましいよ。なんたって、あんたはオーナーのお気に入りだし、智久さんがぞっこんだという噂もあるしね」
「そうかな、でもその話は、まったくの噂よ」
智久とは、オーナーの一人息子であった。同じ市内の、違う会社に勤めていたが、いずれは、この店を継ぐのだろうと言う噂であった。その智久は、父親に似ず、おとなしい男だった。翔子にはやさしかったが、それは皆に対しても、そうだと翔子は思っていた。
「まあ、とにかく、今晩ね」
真由美は、翔子にだめを押した。
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