第五章 事件
「いやあ、昨日は結構飲んだな」
そう云ったのは、大庭であった。昨日の夜も、四人で例の『青い麦』に行ったのである。
「伸二は、大丈夫か?」
「今日のことがあるから、一応セーブしておいたんです」
「そうか」
「ねえねえ」
真由美が云った。
「なんだよ」
応えたのは、もちろん大庭であった。
「今日は、最高の天気だよね」
「そりゃ、俺の、心がけが良いからさ」
「兄貴、そりゃないでしょう。俺達がといってもらいたいですね」
川端が云う。
「あんたたち、私たちを忘れちゃいないかい。ねえ、翔子」
窓を開けているから、自然大声になった。皆の、機嫌はすこぶる良かった。
今日は、翔子達の店の月一回の定休日であった。それに合わせて、堅と大庭が有給休暇を取っていた。
川端が、運転していた。大庭は。助手席で煙草をふかしていた。四人は今、網走を目指して走っている車の中であった。
天気予報では、どうかなというところであったが、実際のところは、素晴らしい快晴になっていた。
こんど、ドライブに行かないかと云い出したのは、川端だった。新車を買ったのが、その理由であったが、翔子と一緒にいたいというのが、本音のところであったろう。
平日だったから、道は空いていた。川端は、最高の気分で運転をしていた。
「あんたたち、何か飲む?」
真由美が聞いた。
「何があるんだ?」
「いろいろよ、自分で選ぶ?」
「ああ、そいつをよこしてくれ」
大庭は、身体をよじると、真由美から、クーラーバックを受け取った。
あれこれ、選んで、結局はコーヒーを取った。
「伸二は、なにがいい?」
川端は、ハンドルを握ったまま、身をのりだした。道は、右カーブに差し掛かっていた。
翔子が悲鳴を上げた。伸二が顔を上げたとき、目の前に人影があった。急ブレーキのきな臭いおとと、ドンと重いものがぶつかる鈍い音が交錯した。道路の脇に、男が倒れていた。川端の顔は蒼白だった。
警察の一室だった。
「幸い、命に別状は無いと言うことだが、全治2ヶ月だからな。なにか、別の後遺症が出なければいいんだが」
その、警察官は、腕を組むとそうつぶやくようにいった。川端は、さっきから何度も繰り返している言葉を、また繰り返した。
「本当に、すみません」
「まあ、一応全て済んだから、今日はこれで帰っていいよ。相手には、また改めて、謝罪に行ったほうがいいだろう」
相手は、地元の六十代の男性だった、釣りに来ていて、用をたそうとして、道をよぎろうとしたようだった。彼は足を折っていた。
三人の所に戻ってきた、川端はひどく、うなだれていた。帰りは、大庭が運転した。
車内は、重苦しい雰囲気だった。
「川端さん、どうなるの。ねえ堅」
真由美が聞いた。
「とにかく、命に別状はなかったんだから、とんでもないことには、ならないと思う。これから色々大変だとおもうけど」
「会社のほうは?」
「なんとか、なるだろう」
大庭はそう言ったが、確信を持っていたわけではない。どういうことになるかは、会社の判断次第だと、分かっていたからだ。
翔子は、この事故の原因が自分にあるような、気持ちにさいなまれていた。なぜなら、ドライブに行こうと言い出した、川端の気持ちが自分にあると感じていたからであった。
川端は、黙ったままうつむいていた。
翔子は、なにか慰めの言葉を云おうとしたが、舌が喉に張りつたようになって、何も云うことが出来なかった。
それからは、あの口の軽い真由美でさえ、ほとんど話をすることは無かった。
事故のせいか、大庭は車を、ゆっくり走らせていた。街にもどっだ時には、四時を過ぎていた。
翔子は、家の前まで送り届けてもらった。立ち去る車の姿を、悲しい気持ちで見つめていた。これから、真由美を降ろして、大庭が川端の会社まで一緒に行くようであった。
翔子は、部屋で呆然(ぼうぜん)としていた。なにが、起きたのか、まだ信じられない思いであった。朝の、ドライブを楽しみに待っていたときの気持ちが、遠い世界の出来事だったような、取り返しのつかない、思い出のように感じられてしかたがなかった。
西日が、締め切ったままのカーテンの隙間から、翔子の前のあるテーブルの上を照らしていた。翔子は、その光の筋をじっと見詰めていた。
今日は、六時に涼一と会う約束をしている。なぜ、そんなことになったのだろう、そんな意味も無いことを、翔子は考えていた。それは、どうして涼一と会うときに、こんな事故がおきたのだろうと、それは考えても意味の無いことであった。だが、翔子は、川端のこと、大庭のこと、真由美のこと、定休日のこと、そして事故のことが、頭の中で、ぐるぐる回ったままで、それらのことが、ひとつにまとまることはなかった。それらは、すべて、ばらばらの状態で、翔子の頭の中にあった。そして、涼一のことも。
時間だけが、過ぎていった。だが、約束したことだから、とにかく涼一に会いに行こう、そのことだけが、翔子の中で、はっきりしていることのようであった。もしかしたら、この自分の気持ちが、涼一が分かってくれるかもしれない、そんな儚(はかな)い期待が心の中にあった。着替えをしなければと、そう思って、翔子はゆっくり立ち上がった。
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