HOME > 小説の森 > せんこう花火 > 第六章
第六章 悲しい別れ
涼一は、道を急いでいた。六時の約束であった。思わぬ友人の来訪があって、予定が狂っていた。このぶんでは、時間ぎりぎりになるだろう。少なくとも、時間前には着きたかった。
いつも、翔子と待ち合わせのときに使う喫茶店であった。そう大きな店ではなかったが、鉢植えの樹が沢山配置されていて、他のテーブルからの見通しが遮断されているから、ゆっくりと話をすることができた。ドアの前に立ったとき、時計を見たら四分前であった。ともかくよかった、涼一はほっとしながら、ドアを開けた。
彼女は、いつもほとんど時間ぴったりか少しだけ遅れて来た。だから、涼一が店の中を見回したのは、念のためだったが、彼女はそこに居た。だから、彼女はいつもと少しだけ違っていたはずだが、その時はまだ、涼一はそのことに気が付いていなかった。翔子は、うつむいていた。翔子の前には、カップが既にあった。
涼一は、注文を聞きに来たウエイトレスにコーヒーを注文した。
「今日は、早かったんだね、僕は遅れそうになって・・・・・・」
だが、涼一の言葉はそれ以上続かなかった。
翔子は、顔をあげると、正面から、涼一の目をみつめた。そうして、突然、彼女の目から、大粒の涙が、こぼれた。
涼一は、驚いた。
「どうしたの?」
彼女の話は、唐突だった。
「今日ね、私、川端さんと云う人と、ドライブに出かけたの。そうしたら、川端さん、人を撥ねてしまって。相手の方、大怪我をしたの」
そういうと、彼女は、思い出したように目を閉じると、嗚咽した。
私は、しばらく呆然(ぼうぜん)としていた。
私は、その言葉に、衝撃を受けて、そうして混乱していた。正直、それから彼女と、何を話したのかは、はっきり覚えていない。ただ、その川端という男のことを、いろいろ聞いたような気がする。そのときの、私は嫉妬に駆られていたのだと思う。
会話は、良く覚えていないが、私の心のなかで渦巻いていた、混乱の記憶だけは、今でも思い出すことが出来る。
「ドライブ?今日自分と会う前にドライブに、行っていたのか。川端というのは、彼氏だったのか?この前自分が見かけた男に違い違いない。昨日の夜も、きっと彼と会っていたに違いない。彼女の涙は?川端に対する思いなのか?それならどうして、自分に会いに来たというのだ?」
正直私は、彼女に奈落の底へ突き落とされた気がしていた。気持ちは、真っ暗だった。
どのくらい、その喫茶店にいたのだろうか。そんなに、長くも無かったし、短くも無かった気がする。会話らしい会話も続かなかったのだと思う。最後は、気まずい沈黙が、続いていた。
二人は、店の外に出た。涼一は、それから、二人で飲みに行くつもりでいた。最も、楽しい時間をすごすことになっていたはずだ。だが、そんな気持ちは萎えていた。無性に、気持ちが荒れて、彼女とまだ一緒にいたいという気持ちはあったが、同時に離れたいという矛盾した気持ちもあった。しかし、実際のところ、これから二人で飲みに行くという雰囲気ではなかった。彼女も、同じであったろう。涼一は、力の無い声で、こう云った。
「ここで、分かれようか?」
「ええ」
彼女の、その返事を確認してから、涼一は、歩き出した。そのとき、涼一は不思議な気持ちに捕らわれた。翔子は、自分の後姿を見ているのではないか、妙な確信があった。だから、振り向きたい気持ちがあった。しかし、どうしても振り返ることができなかった。彼女に、裏切られたような気持ちがあって、意固地になっている自分があった。
涼一の、後姿を見つめながら、翔子は涙を止めることが、出来なかった。どうして、こんなことになったのだろう、考えても考えても、分からなかった。そもそも、私は、涼一に何を、話したかったのだろう、あるいは何を聞いて欲しかったのだろう。そうして、涼一になにをして欲しかったのだろう。何一つ、自分の中で明確に出来るものはなかった。ただ、優しくして欲しかったのだ、ただ、話を聞いて欲しかったのに、涙に滲む風景の中で、涼一の後姿は、雑踏の中に消えていった。翔子は、分かっていた、もう涼一から電話が来ることはないのだろう。
涼一は、それから、場末の居酒屋に、独りでいた。居酒屋といっても、食堂といったほうが店の様子としては正確だろう。朝まで、やっている店で、何度か来たことがあった。すでに、何本も銚子を空けていた。
もう、なにもかもが嫌になっていた。彼女に、腹を立てている自分があったが、自分自身も嫌になっていた。明日からの自分は、どうなるのだろうか、他人事のような不安が心の中にあった。
「銚子、もう一本」
もう、涼一のろれつは、回っていなかった。
目次 次章