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第八章 去り行く街

 年が明けて涼一は、研究室の戸田教授から呼び出しを受けた。
 涼一は、親しく教授と話をする学生ではなかったから、もちろん幾分緊張していた。
 「織田君、去年の我が学科では、留年生が一人もいなかったのは、君も知っているだろう。だが、今年は引っかかりそうな学生が、何人かいるんだ。今現在、その一人に君が入ってるわけでは無いが、かなり微妙なポジションなんだ。成績のほうは、まあまあとしても、出席時間の方が、このままの状態でいくと、ドボンになる」
 教授は、そういう言い方をした。
 「まあ、君がもう一年やりたいということであれば、どうのこうのはないんだが、今からでも、頑張れば問題ないことだから、一言いったおいたほうが良いと思ってね」
 「ありがとうございました。今後は真剣にやりますので、よろしくお願いします」
 そう云って、教授のところから辞去した。

 イブの夜、翔子を見てからずっと、考えていたことがあった。いったい自分は、何をやっているんだ、何をしたいというんだ。自分を甘やかしていることは、自分自身で気が付いていた。だが、際限なく、そのことを続けていこうとするのか、それは、出口の見えないトンネルにずっと居座ろうとしているように思えてきた。何の、希望も、面白みも、前進も、後退すらない、むなしい袋小路。もし仮に、留年したら、その一年は、抜け殻のような一年になってしまうだろう。翔子の思い出を抱えたままの、意味の無い、時間。そう思ったとき、涼一は、前に進まなければならないと思った。
 そうして、教授に言われた一言が、転機になったと思う。生活は、少しづつ、元に戻っていった。
 結局のところ、留年することはなかった、そうして、就職も決まり、無事卒業することが出来た。

 卒業した年の夏に、この街を涼一は訪れていた。敬祐と飲む約束をしていた。
 待ち合わせまでにはかなり、時間があった。丁度、夏祭りのパレードのある日であった。涼一は、パレードのルートを確認すると、目抜き通りへと急いでいだ。もう、夕日は山の端にかかって、あたりは薄暗くなり始めていた。パレードは既に始まっていた。
 涼一は、群集の後ろから、パレードを目で追っていた。看板に、××商店街だとか、××町内会だとか表示があった。涼一は、彼女の店があった商店街の名前を探していた。やがてその一団は見つかった。菅笠に手甲伽半といういでたちでだあった。菅笠を被っているから、ずっとは顔をみることが、出来ない。だから、踊りの途中で、顔をあげたり、身体を回すときにしか、顔を確認することができなかった。
 そうして、涼一は、ようやく翔子を見つけた。彼女は一生懸命踊っていた。道の後ろから、覗いていた、涼一の視線にはもちろん気づきはしなかった。
 夜の照明の灯りが、菅笠の下の彼女の顔を浮かび上がらせていた。涼一には、限りなく幻想的な風景に見えた。
 涼一は、そのとき、泣きたいほど、悲しいきもちに捕らわれた。手を伸ばせば、すぐそこに、翔子がいるのに、実際には限りなく遠く離れた存在になっていた。自分は、今ここに居るのに、この街にとっては、もう陽炎のような存在にしかなっていないということを、涼一は良く分かっていた。だが、この記憶を、自分はずっと忘れることはないだろう。そのことを、涼一は確信していた。

 少し急な、居酒屋の階段を、涼一は急いで上った。学生時代に、敬祐と良く来た居酒屋であった。
 「おう、遅かったな」
 そう云ったのは、敬祐であった。
 「悪い悪い、ちょっとパレードを見ていたもんで」
 「パレード?」
 「ほら、夏祭りの舞踊パレードさ」
 「ああ、そうか」
 「そこで、翔子を見たんだ」
 「沢崎翔子か?」
 「ああそうさ」
 「それは、良かったな。そうかパレードに居たということは、まだあの店に居るんだろうな」
 「そうだろうな」
 「それと、おそらくまだ、結婚はしていないんだろうな」
 「ああ、きっと」
 「お前は、彼女が好きだったものな」
 「うん」
 「あれほど好きだったら、いっそ結婚でも申し込んだらどうかと思ったぜ」
 「そう云うなよ、学生の俺がそんなことを言えるわけがないだろう」
 「そうじゃなくて、云える自信がなかったのだろう」
 「そうだな、よくよく考えて見れば、彼女を好きだということ以外は、何にも考えてなどいなかったからな」
 「きっと、そのことは、彼女自身も感じていたんじゃないかと思う」
 「そうだろうな」
 「いまさら、こんなことを云ってもしょうがないだろうが、お前達は出会わないほうが良かったんじゃないかという気がするよ」
 「何でだ?」
 「どう考えても、まとまりそうもない恋の行方だったんじゃないか」
 「でも、出会ってしまった」
 「そうだな、実際のところ、俺はこう思うんだ。どんなことにも、意味の無いことなど無いと思うのさ。だから、まとまらない恋であっても、それは意味のある恋だったのかもしれない」
 「そうかもしれない、少なくとも、俺にとっての思い出だけは間違いなく残っている。そうして、今気づいたんだが、そのことはものすごく大切に思っているんだ」
 「そうだろう、思い出というのはとても大切なものさ。人から思い出を奪ったとしたら、それこそいわゆる抜け殻という奴だろう。まあ、今日は、懐かしい街で、懐かしい思い出に浸って大いに呑む、ということでどうだ」
 そう云って、敬祐は涼一の顔を覗き込んだ
 「よし、乾杯だ」
 それから、涼一と敬祐は、久方ぶりに痛飲することになった。

エピローグ

 涼一は、ホテルの窓から、街を見下ろしていた。
 最後に、敬祐と一緒にこの街で飲んで、それから十年以上が経っていた。まったくの、幸運だが、出身の大学を訪れることになった。仕事であった。先ほど、街中を歩いてきたが、ずいぶん寂しくなっていた。どこの都市でも、そのようであるが、郊外型の商業施設がどんどん出来て、その分中心街はさびれていくようであった。時代の流れとはいえ、当時の繁華街を知る私としては、やはり一抹の寂しさを感じざるを得なかった。おそらく、もう当時のような舞踏パレードはなくなっているに違いない。
 眼下の道路も、かつて翔子は踊りながら、通ったはずである。そうして、私はあの日の、翔子の横顔を思い出していた。今でも、そのときの胸の痛みを、微かに思い出す。
 突然私は、子供の時の光景を思い出していた。せんこう花火のはかない、美しさであった。せんこう花火の灯りと、翔子の横顔が重なって揺れた。そうして、私は窓越しの、夜の闇をじっと、見つめていた。その闇の中に、あのときの光景が浮かぶような気がしてならなかったのだった。

<完>

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