HOME > 小説の森 > 竹簾 > 第一話 無礼講
 私のお気に入りのその店は、新宿のあるビルの一画にあったが、不思議なくらい目立たない店であった。そもそも、その店を見つけたのは、まったくの偶然だったのだろうと思う。なぜならそのビル自体が駅口からは結構離れていたし、何より普段なら我々がテリトリーとして足を運ぶようなところではなかったからだ。なにかの飲み会で会社の同僚と飲んだ後、つまりちょっとした拍子に迷い込んでしまったというのが一番近い話のように思う。
 だからと云って、路地裏だとかといったような決して怪しく危険な場所などではなかった。ただ、確かに新宿なのに表通りを外れているせいか静かで、妙におっとりしていて都会の喧騒の狭間のような場所であった。地方出身の私はその雰囲気がどことなく故郷の繁華街に似ているように感じられてひどく気にいってしまった。
 東京では全てのことが、あくせくしているよう思われる。仕事や、遊ぶことや、飲むことさえも私にはそのように感じられた。せめて、飲むことくらいゆったりとできないものか、私は心の底でそんなことをぼんやり感じていたのではないかと思う。そうしてそのような気持ちになれる店というものはありそうで、実際のところなかなか無かったのだ。
 ところで、初めてこの店を見つけたところまでは良かったのだが、二度目にこの店に来るのにはひどく難儀をした。始めてこの店に来たときは私も相当酔っていたから、確かに記憶が曖昧だったところもあるにはあった。ビルを見つけるのは思ったほどは苦労しなかったが肝心の店がなかなか見つからなかった。なんとか結局は見つけることができたのだが、階段の丁度影になるような位置にあって、本当に目立たない店だった。
 暖簾が入り口にかかっていて、呑み処『竹簾』(たけすだれ)と読めた。カウンターだけの小じんまりした店で、店の名前にあやかってか、竹簾がカウンターの後ろに配されていた。そうして落ち着いた和風の店の造りがとりわけ私の気に入ったところであった。最初にこの店に足を踏み入れた時、なんともいえない懐かしさと安らぎを感じたのを覚えている。
 女将は年は不明だが、私よりは若いことは間違い無いだろう、ちょっとおっとりしたところがあってなかなか好い女だった。常連の客も少なくないようで、皆彼女のことをママと呼んでいた。
 勘定の方は、居酒屋チェーン店などと比べるなら安いということはなかったが、考えようによっては高いと云うほどのこともなかった。それより、店構えや料理を考えるなら案外安い方だといえなくも無かった。
 爾来、ここは私の秘密の隠れ家になっていた。近頃では馴染みの端くれになっていると自負していた。

 ああ、私の名は澤村智崇、ある電機メーカーの工場に勤務している。今年が前厄になる。勤務先の工場は神奈川にあったが、新宿は飲みに来れない位置ではなかった。
 
「しばらくね、澤村さん。仕事忙しかったの? もうそろそろ来る頃じゃないかと思っていたの」
 女将が、愛想の良い顔で私を迎えてくれた。
「そうだね、暫くぶりになるのかな。まあいろいろ忙しいことはあったけどね。今日は、待ち合わせをしているんだ」
「あら、篠崎さんかしら?」
「おっ、良く分かったね」
「待ち合わせをするんだったら、篠崎さんしか居ないでしょう?」
「そう云われればそうか。ところであいつはこの店に来ているの?」
「いいえ、来てくれるといいんですけどね」
「それは、しょうが無いかもしれないな。やっぱり浜松町界隈で飲むことが多いらしい。澁谷までは足を伸ばすこともあるようだけど、こちらまでくることはそう無いんじゃないかな」
「そういえば、篠崎さん。澤村の店を荒らしちゃいけないなんて云ってましたね」
 篠崎は、同期入社の男だった。今は浜松町にある本社に勤務している。入社して暫くは教育期間で一緒に過ごしたが、その時仲良くなった男だった。無類の酒好きだったが、兎に角酒の飲み方が綺麗で一緒に居ると楽しい男だった。同期といえば、ライバルでもあるからある意味付き合いづらい面も無いことはないが、彼と私は、多少遅れたものの一昨年揃って課長になっていた。
 この店が、私にとって特別な店であることは篠崎も分かっていたのだろう。

「今日は、とても暑い一日でしたね」
「そうだったようだね」
「ああそうか、澤村さんは建物の中にいるから感じないのね」
「来る途中はさすがに暑かったよ」
「そうでしょうね、でもこれからは日一日と秋に向かっていくのね」
「あれ、ママ今日は何か感傷的だな」
「そんなことは、無いけど季節の変わりは早いもの」
「そうだね」
 挨拶代わりのたわいのない会話であった。

 程なく、入り口の引き戸が開くと、篠崎の顔があった。
「やあ、お待たせ」
「少しばかり遅かったじゃないか」
「出るとき、ちょっと上にひっかかってしまってな。でもすぐに解放されたからよかったよ」
「そうなのか、お前が来るまではと待ってたんだぞ。何にする?」
「もちろん、これだろ」
 彼は、ビールジョッキを握る仕草をした。私達は、生ビールで乾杯することになった。

 グラスを合わせて、一気に呷った。
「あー、旨い。夏はこれだからたまらないね」
 グラスを置くなり、篠崎が云った。
「おまえは、大体飲めるのならいつだって旨いんだろ」
「ま、そういうことだ」
 突き出しは冷奴だった。生姜と葱の辛さが舌に心地よかった。
「ところで、変わりはないのか?」
 篠崎が聞いてきた。
「同期の山下のことだけど、どうもあいつは会社を止めるらしいぞ」
「そうか、やっぱりな、寂しいけどしかたがないな」
「ああ、そうだな。これで四人目になるか」
 やはり私は何がしかの感慨を覚えずには居られなかった。その山下という男は、課は違ったが私と同じ工場にいた。同期の中でも目立った男だった。自身に満ちていて、ずけずけ物を云う男だった。彼は皆から一目置かれるような男だった。だが、結局はその性格が災いした。上司と意見の衝突があって、それから彼の処遇が思わしくないものとなった。そうして彼はさらに意固地になっていったのだと思う。同期の連中が管理職になっても、彼は取り残されたままだった。彼は自分で自分の行く末を考えたのだろうと思う。

 会社の状況は決して良好な状態ではなかった。だからという風に言い切りことも出来ないが、皆の気持ちもギスギスしているように私には思えた。
 自分などはそんな大それた決心をするなど思いもつかないが、あっさり会社から離脱するのも、選択肢として有りなのかもしれないと思った。入社した同期は十二人だったがこれで、八人になってしまうのだった。
 篠崎も山下のことを考えていたのかもしれない。私達の間には僅かばかりの沈黙の時が流れた。

「日本も、この先どうなって行くのかなと思うと、不安になるよな」
 私は云った。
「ああそうだな。いずれにしてもあの高度成長時代などのようなことはこれからは、ないだろう」
「俺も、そう思うよ」
「工場の方はどうなんだ?」
「ああ、今は忙しいよ。だけど、秋以降はどうなるか、俺は厳しくなるんじゃないかと思っている」
「そのとおりだろうな。いろいろ対応策は練っているんだが」
「こっちは、物をつくるだけだからな。そっちに頑張ってもらわなくちゃ困るぞ」
「なんとかするさ」
「そう云って、いつも期待を裏切られているからな」
「そう云うなって」
「ところで、篠崎、山下はどうしてこんなことになってしまったか分かるか?」
「そもそもは、神作課長とあるプロジェクトの件で意見が対立したことがきっかけだったんだろう」
「一般的には、そういう話になっているんだろうな。間違っているとまでは云わないが、でも、本当のところはそう単純じゃないのさ」
「それは、どういうことだ?」
「あいつは馬鹿だった、おまけについてなかったのさ。以前俺はあいつと二人だけで飲んだことがあったんだ。その時に聞いた話だ」
 私は胸の中にしまっていた話を始めた。
 
「俺達は教育が終わってそれぞれの職場に配属になっていったよな。まあそれぞれ、希望のセクションに行けたものもそうでないものも居ただろう。しかし、長いサラリーマン生活から見るなら多少の優劣はあるのだろうが、それほど大したことではないといっても大きな間違いじゃないだろう。どうだ、篠崎?」
「そりゃまあ、そうだろうな」
「だが、あいつは、致命的な失敗をしてしまったんだ。誰もそのときはそう思わなかったんだろうが」
「一体何があったんだ?」
「ある年、神作課長の下に居た時の忘年会のことだ。山下も嫌いじゃないから随分飲んだそうだよ。そのときは、無礼講ということだった。課長におだてられて、山下はいい気になって普段思っていた課のことを色々ああでもないこうでもないと、本音のところをべらべらしゃべってしまったそうだ。でもな、課のことってのは実際は神作課長のことになるわけだろう。あの当時の俺達は若いし、サラリーマンの悲哀などもそんなに知らず生意気な盛りだったはずだ。不幸は神作課長は小心者だったということさ。当時の坂脇部長の腰ぎんちゃくとういことだけで課長になったような男だったからな。そうして、ふと山下が神作課長の目を見た時、顔は笑っていたが、だが目が笑っていなかったそうだ」
「おっと、それはちょっと怖い話だな}
「そうだろう、そのとき、さすがの山下もぶるったそうだ、やりすぎてしまったと」
「そうだろうな」
「篠崎さ、今なら良くわかるだろうと思うがな、無礼講って本当は曲者だよな」
「うむ、そうだな」
「案の定、それから、神村課長の山下いびりがはじまったそうだ。それは、ねちねちとしつこかったそうだ」
「神村課長自身はたいした力がない男だったから、なお更陰湿になったのかもしれないな」
「山下はああいう性格だし、能力自体もあっただろう。だからなお更、我慢できなかったのだろう。そうして、たまりにたまった鬱憤が爆発して、あの事件が起こったというわけさ。で、結局はあの課を追い出された」
「そうなんだ」
「ところが、不幸はそれだけではない。能力さえあれは、それを評価して引き立ててくれる上司とめぐりあうことはよくあることだな。ところが、脇坂部長は出世街道ど真ん中の男だった。神村は脇坂にとにかくべったりだった。周りの人間はそのことをよく分かっていた。だから、脇坂をおそれて山下はやっかいもので扱われ続けた。つまり飼い殺しだな。そこから後は皆の良く知っていることさ、あいつは少しずつひねて、つき合い辛い男のレッテルを貼られるようになってしまった。周りと旨くやれないサラリーマンは、結局出来ない男だと云われるようになるしかなかった訳だ」
「そういうことだったんだ」
「ボタンの掛け違いという言葉が、あるな。結局あいつは最初のボタンを掛け違えて、そのまま最後までボタンを掛け続ける羽目になってしまったのさ」
「もしかしたら、俺達だってそうなったのかもしれなかったな」
「それは、分からんが。そういうことだってあったかもしれないということさ」
「すさまじきものは宮仕えというが、サラリーマンとはつらいものだな」
「そうでもないと俺は思っているよ。どんな仕事や商売でも結局のところはそういうものじゃないのか、俺はそう思うよ」
「そうかもしれない」
「明日のことなんて誰にもわからないだろう」
「そうだな」
「だから、こうやってせめて、楽しく酒を飲むんじゃないのか」
「そうですよ、つらいことがあっても。酒と友達があればいうことないじゃないですか」
「それと、美人のママが」
「あら、なにも出ませんよ」
 俺達は顔を見合わせて、微笑(わら)った。

 脇坂はいまや役員になっていた。まだ上にいくだろうというのが皆の見方だった。そうして神村は部長になっていた。正直なところ私は、どうしてもその二人が好きになれなかった。ことさら、反対することはなかったが、積極的にかれらの路線に加わることはなかった。その所為かどうかは分からないが、私の昇進は決して早いほうではなかった。でも、私は私だ、そういう気持ちが心の奥の深いところにはあった。
 中間管理職は本当にきついと、最近は特に感じる。山下もこれから大変に違いない。だが残る自分の方が楽だとはどうしても思うことが出来なかった。最近は業務上の接点が無かったこともあるが、彼と話したり飲んだりすることはなかった。
 だが、そのうち彼が会社を離れてから落ち着いたならいつか話しをしてみたいと思った。それにしても、また一緒に飲むことがあるのだろうか、そんな機会はおとずれることはないと心の中では分かっていた。それでも、私はそんな光景を心の中に描いてみた。

 先ほどからは、酒に変えていた。
「いろいろあるけど、まあ頑張るしか無いのだろう。ほら……」
 そう云うと篠崎が、銚子を持ち上げていた。私は、手にしていたぐい飲みを差し出した。
「そうだな、頑張るしかないな」
 それは私自身が放った言葉であったが、本当に納得して云った言葉だったのだろうか?
 その時、ママと視線が合った。優しい目だった。
 やはり、頑張らなければならないのだろうと思った。この店にはまた来たいと思っているのだから。
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