HOME > 小説の森 > 竹簾 > 第二話 燃える緑
 あいにくの雨だった。雨脚は強くはなかったが、傘なしで歩くのは少しつらいところだった。
「真崎、傘は持っているか?」
「出張には手放せないだろう、大丈夫だ」
「そうかそれはよかった、駅口から少し歩かなくちゃならないんだ。行くぞ」
「久方ぶりの雨だな。ここのところ暑かったから良いお湿りじゃないか」
「そうだな。これからは一雨ずつ涼しくなってゆくんだろう」
 急の雨の所為か、今時の時間にしては人通りが少なかった。私達は少し急ぎ足で並んで歩いていた。
「おい、それにしても結構歩くんだな」
「もうすぐだ。歩くのは慣れていないのか」
「向こうじゃほとんど車だからな。田舎にいる俺の方が、歩いていないというのも皮肉なことだな」
「歩かないと、メタボになるぞ」
「分かっちゃいるんだけどな」
「もうすぐ、お目当てのビルだ」

 いつのながらの暖簾がそこにはあった。
「いらっしゃい、澤村さん。あら雨が降っているの?」
 『竹簾』の女将がいつもながらのにこやかな笑顔で出迎えてくれた。
「ちょっと前に降り始めたんだ。たいしたことはないから、ほどなく止むんじゃないかと思うよ」
「そうなの、お隣さん初めての方ね?」
「そうなんだ、苫小牧から出張で来ているんだ」
「真崎といいます。澤村がいい店があるからって出張(でば)って来ました」
 そう云うと、真崎は相好を崩した。笑顔がいつもながら人懐こい男だ。
「お友達かしら? 仕事のお付き合いじゃなさそうね」
「そうなんだ、僕の古くからのとても仲の良い友達さ」
「そうなの、真崎さんどんなお仕事なさってるの?」
「土木関係の仕事をしています」
「だからこんなに顔が黒いんだ。要はゼネコンさ、今苫小牧の方で仕事をしているんだ」
「澤村さん口が悪いわよ、遠くて、大変ね」
「そうでもないですよ。故郷気分満喫しています」
「ああ、そうでしたね、二人とも北海道だったんだ」
「そのとおり、僕はこいつがうらやましいよ」
「夏には帰らなかったんだな?」
「家族を持ったら、そうそう毎度毎度、北海道まで行くわけにもいかないさ」
「ま、しょうがないところだろう」
「ビールでよろしいのかしら」
「真崎は、酒が好きだけど、乾杯はビールでいいんだろう?」
「いいとも」

「どこかで、飲んできました?」
「いいや、待ち合わせて真っ直ぐここに来たんだ」
「それじゃ、まだ何も食べてないのね?」
「ああ、そうだよ」
「それじゃ良かったわ」
 突き出しに、カツオのたたきと、ソーメンの小鉢が出てきた。その汁(つゆ)がなんともいえず美味しかった。
「いやあこのソーメン最高だよな。なにか過ぎ行く夏の思い出という風情だな」
「なんだ真崎、急に詩人にでもになったのか」
「そういう訳じゃないけど、いよいよ夏も終わるわけだ。そう思うと長かった夏が急に短く思われてな」
「そういわれりゃそのとおりだな。暑い暑いと逃げ出したくなっていた夏がいざ過ぎるとなると愛しく感じられる。ソーメンもそろそろ食べ収めのときなんだよな」
「そうね、東京の夏もいよいよ終わりということね」
「そういえば、ママは東京の人じゃなかったよね。どこ出身なの?」
「あら、聞きたい?」
「べつに隠すことはないだろう、教えてよ」
「はいはい、私の故郷は仙台なの」
「そうだったんだ。我々とはそう遠い間柄じゃないということか。でもぜんぜん言葉になまりがないね」
「私だって方言はしゃべるけど、街中に居たせいじゃないかしら」
「そうか」
「きょうは、ゆっくりしていって。お友達が来てくれたんなら澤村さんのおごりでしょ。真崎さん、どんどん料理注文してね」
「いいのか、澤村?」
「ママにそう云われたらしかたがないよな」
「おお、太っ腹!」
 
 真崎は、心底嬉しそうな顔をした。私はといえば、おいおい、今までずっと割り勘だったのに、なぜ急にそうなるのかという思いはあった。だが、女将の店で真崎と飲んでるということは実際のところ私にとって何にも変えがたい喜びであった。
 
 週末の割には、客が少なかった。雨の所為だろうと思っているうちに急に立てこんできた。ママは、俄然忙しくなってしまった。
 私達は、しばらくぶりの再会に積もる話に花を咲かせていた。
 真崎は、飲むとはしごの好きな男だった。適当なところで私が聞いた。
「どうする、これからどこかへ行くか?」
「いや、まだ時間があるし、ここでゆっくり飲むのも良いんじゃないか」
 真崎はこの店が気に入ってくれたようだった。店の中は喧(かまびす)しかった。
 グループで来ていた客が引けると、店もずっと静かになった。
「ごめんなさいね、お相手できなくて」
「いや、店が繁盛するのは良いことさ。なんたってママ美人だからな」
 真崎の口が軽くなっていた。私達は、それまで結構飲んでいたのだ。私は、最高の気分だった。
「ねえママ、休みの日は何をしているの?」
 私の口も彼に劣らず滑らかになっていた。
「月並みなことばかりよ、部屋で音楽を聴いたり、本を読んだり、ショッピングには良く出かけるわ、何を買うでもないけれどね」
「どんな音楽が好きなの」
「私は何でも聞くの、でもシャンソンとかジャズが好きだわ」
「えっ、それはいいね俺達もジャズは大好きなんだ」
 私も、そのことを意外に思った。だが、よくよく考えればママのことはほとんど何にも知らなかったと云っていいだろう。ここに通ううちに自然と知った事といえば、名前は亜希子と云って独身らしいこと。そうして高円寺に住んでいるということ位だった。
「僕はてっきり都都逸(どどいつ)でも聞いているのかと思っていた」
 もちろんそれは冗談だったが、彼女はそれが可笑しかったらしく、涙目になるまで笑っていた。
「いやだわ、澤村さん。こういう店をやっているからって、私そんなに年の人間じゃありませんよ」
「ごめんごめん、そういうイメージも楽しいかなって思っただけさ。でも本当僕達もジャズもとっても好きなんだ。こんどはママと話が合いそうだな」
「そうね」
「ところで、ママは車持っていたはずだよね。ドライブなんかには行かないの?」
「一人じゃねえ、めったに遠出をすることはないわ。それでも近場はちょくちょく出かけるわ。そうそう図書館にはよく行くもの」
「図書館、へえ、珍しいね。どこに行くの?」
「私が良く行くのは、H市のところよ」
 私は驚いた。実は私も図書館は良く行くほうであった。そうしてH市の図書館は何度か足を運んでいたのだ。公園がそばにあってお気に入りの図書館だった。
「あそこは、僕も何度か行ったことがあるんだ。とても良いところだけど何で知っているの?」
「実は、私は何年かH市に住んでいたことがあるの」
「そうか、僕の住んでるところからはそう遠くないんだ」
「そうよね、知っているわ」
「図書館によく行くということは、もちろん本が好きで、学生時代からよく行っていったんじゃないの?」
 私が聞くと、彼女が答えた。
「ええそうよ、高校の時も図書館には友達といっしょにずいぶん通ったわ」

「ああそうだ、今思い出したことがある」
 突然、真崎が大きな声で云った。
「何だ?」
「いつか、お前にも話そうと思っていて、何時の間にか忘れていたことを急に思い出したよ」
 それから、真崎が話し出したことは、懐かしい青春とそうして少し悲しい話だった。
 
「俺達の同級生に、小石川涼子という女子が居ただろう?」
「ああ居たよな。いい娘(こ)だった」
「彼女は、ちょっと不思議な娘(こ)だったよな」
「ああそうだな、どのグループにも属していなかった」
 私は、真崎の云うことがわかった。当時の高校の私達の居たクラスは、ごく大雑把に云うと三つのグループに分けることが出来た。
 一つ目は、高校生活を謳歌して羽を伸ばしていた連中。二つ目は、しっかりと勉学とか部活にいそしんで居た連中。
 初めの連中には結構悪い奴も居ないことはなかったが、いわゆる本当の悪はいなかったのだろうと思う。皆そろって卒業できたのだから。彼女とか彼氏とか、彼等からはいつも華やかな噂が、そよ風のように私の脇を吹き抜けていったものだ。次の二つ目の連中には、秀才と云われるような者が当然のことながら多かった。そもそも我々の高校は進学校だったのである。
 そうして、三つ目はそのどちらでもない連中であった。真崎も私もその三つ目のグループであった。とにかく目立たない連中であった。
 思い出すと、真崎も私も不完全燃焼の高校時代であったと思う。だから、二人で地元の同じ大学に入ってから羽目をはずしたのかもしれなかった。二人で過ごした、学生時代は忘れられないものになっている。

 同級生と云っても、それほど親しくないものとは余り言葉をかわすこともなかった。そのことも何となくグループが出来ていたことの一因だったのかと思う。
 だから、小石川はそのなかで不思議な存在だった。決して美人ではないし、もちろん浮いたような話も聞いたことがなかった。だが、いつもにこにこしていて親しみやすい同級生であった。当時私は、女子と言葉を交わすことが正直苦手であった。それでも彼女とは、たいしたことではないが、よく言葉を交わした記憶がある。
 クラスの中で、どんなグループのどんな人間とも分け隔てという言葉はおかしいのかもしれないが、話が出来た人間は彼女くらいではなかっただろうか。
 それでも、真崎にしろ、私にしろ特別彼女とは親しかったわけではなかった。私は真崎の次の言葉を待っていた。

「随分前のことになるが、俺が港湾工事で茨城にいたことがある。その時、運良く夏休みがもらえて帰郷したんだ」
「ああ、僕も覚えているよ。お前に誘われたけど日程が合わなかったんだよな。確か就職してから五年目の夏だったな」
「そうだったかもしれない。澤村がだめだったから、俺は一人で帰ったんだ。そのころは、けっこう仕事のほうもきつくなって、俺自身サラリーマンの壁というものにぶち当たっていた時期だったと思う」
「そうかもしれないな、そんな時期だったか」
「久方ぶりに帰った故郷は懐かしかったし、昔の連中とも飲んだりして結構楽しい休暇になった」
「そうだろうな」
「それで、帰った二日目だったかな。何にもすることがなくて、時間が空いたのさ。それで俺は、ふと思い立って図書館に行くことにしたんだ」
「それはまた、どうして?」
「懐かしくなったんだろうな。高校時代の俺は、どうもなんか色々中途半端だった。勉強も思うに任せず悶々としているところがあった。それでも、進学のこともあるし何とかしなければという気持ちだけはあったんだ。それで、気が乗らないときはよく気分転換に図書館に行ったものだ。だからおれは、そのとき高校時代の自分と向き合いたかったのかも知れないと思う」
「なるほどな」
「夏の、昼下がりだった。街を散歩がてら俺は図書館まで歩いたよ。あの当時でも街は少しずつ変わっていたが、懐かしい風景も多かった。天気は良かったが風が少し吹いていて気持ちの良い日だったよ」
「確か図書館は、俺達が高校のとき建て替えになったんだよな」
「そうさ、建屋に入ると中はひんやりと涼しかった。特別何か読もうという本があって来たわけではないから、俺はぶらぶらと館内をあるいていた。そうしたら、小石川と出会ったという訳さ。俺も驚いたが、彼女も驚いた様子だった」
「そりゃそうだろう、確か彼女は本州に就職したはずだよな。そこでお前と出会うなんてのはものすごい偶然だからな。彼女一人だったのか?」
「ああそうさ、それから俺達は懐かしいとか久しぶりとか色々言葉を交わしたけれど、図書館の中じゃ話もできないだろう。そこで外で話をしようということになった。外に出たら図書館の前にベンチがあって、丁度良い具合に白樺の木が日陰を作ってくれていた。俺達は並んで座ったよ」
「どんな話をしたんだ?」
「ほとんど仕事というか、今どんなことをしているという話だった。彼女は東京で教員をしているということだった。そうか、東京にいるのかと俺が云ったら、東京は東京でもすごい在で彼女が住んでいたところは村だったそうだ」
「村があるってのは、僕も何かで聞いたことがあるな」
「俺も自分のことを色々話したよ。仕事のことや対人関係のことが結構きついと感じていることなんか。彼女も色々なことを感じているようだった。もう話の細かい内容などはすっかり忘れてしまったが、随分いろんなことを話した記憶がある。確か一時間以上も話してたはずだ」
「そんなにか」
「でもな、そう長くは感じなかったんだ。おそらく楽しい時間だったからだろうと思う。あんなになんていうか親身っていうかナチュラルに話をしたことって、俺の記憶の中ではあまりないことだった。そのことは後から思い出して、不思議に思ったことだ」
「そんなことも、めぐり合わせであるのかもしれないな」
「だがな、俺はもっと不思議に思えてならないことがあるんだ」
「もっと?」
「そうさ、そのとき俺はベンチの左端に座って、彼女は右端に座っていた」
「なんだ、くっついて座っていたんじゃんかったのか?」
「そりゃそうだろう。俺達が向かっていた西の空はものすごく明るかった。目の前には芝生が広がっていた。そうして、なぜだかその芝生の緑がものすごく俺の視神経を刺激するんだ。言葉を替えると、気持ち悪いほど生々しいと云うような。うまく表現することができないけど、そう燃える緑っていうのかな」
「妙な言い方をするな」
「俺もそう思うが本当なんだ。ふつう緑ってのは穏やかに感じるものだろう。だが、その時に限って不思議にそう感じたんだ。もしかしたら、それは後からそう思うようになったのかもしれないけどな」
「よく分からないな?」
「それは後で説明するけど、最後はお互いにこれからも頑張ろうねという話で終わった。そうしていつもの彼女の笑顔だった。まったく彼女は変わっていなかったよ」
「それから、どうした。そこで分かれたのか?」
「彼女はこれから行くところがあるとかって云っていた。立ち上がると俺は彼女を見送った。あそこは白樺とか色々な木が多いだろう。彼女はその中をゆっくり遠ざかって行ったよ。暫くしてから、突然こちらを振り向いたんだ。そうして俺を見ると手を上げて振った。もちろん俺も振ったよ。だけどその時は随分遠ざかっていたから、彼女の表情を読み取ることは出来なかった。俺は彼女の姿が木々の陰になって見えなくなるまで、そのままそこにじっと立っていた。それから俺は、図書館に戻った」

「ふうん。そんなことがあったんだ」
「それからの彼女の話さ。お前も知っているんだろう」
「ああ、後から聞いたよ」
「どうかなさったの?」
 女将が、聞いた。
「その次の年が、実は高校の同窓会の十周年に当たっていた。澤村は仕事で出席できなかったけど俺は行って来たんだよな」
「そうだったな」
「そこで、俺は小石川が亡くなったって聞いたんだ。だけど詳しいことは、そこでは分からなかった。だが、二次会に行った席で、同じクラスの仁木という男から聞いたんだ。自殺だったということ、そうして原因は失恋らしいということ」
 三人に間には、暫くの間沈黙が流れた。

「俺はそのことを聞いた時、本当に信じられない気持ちだった。なぜなら死も失恋もそうして自殺ほど彼女にミスマッチな言葉など無いように俺には思えてならなかったんだ」
「僕も、同じ風に感じたよ」
「そうだろう。だから、かえって俺にはかなりのショックだったような気がする。それで後から思ったんだ。常識的に考えれば、二人で見た風景は何の変哲もないものだったはずだ。だから俺が見た燃える緑は、あとからそう思うようになっただけかもしれないって」
「その可能性はあるな」
「でも、俺の記憶の中には間違いなくあの時の燃える緑があるんだ」
「不思議なことになるが、それも正しいのかもしれない」
「そうだな」
「なにか、悲しい話ね」
「人間は必ず死ぬものだと分かってはいたけど、それからだな、死とはいったいなんだろうって考えるようになったのは」
「真崎さんって良い人ね。だから、小石川さんいろんなことを話したのだと思うわ」
「僕も、そう思う」
「ひとつ云えることは、私達は今生きているということよ。だから一生懸命生きなきゃいけないと思うの。小石川さんの分まで頑張って生きて、そうして恋をするならそうするの」
 そう云うと、ママは私の目を見た。私は、視線を逸らすことができなかった。酒のせいなのか、私は彼女のことをどうしようもないほど愛しく感じていた。

 最後の客が店を出ると。亜希子はカウンターに腰掛けた。どうして自分はあんなことを云ったのだろうと思った。
 でも分かっていたのだ、あの話を聞いて。小石川という娘が可愛そうだと思って同情していた。おそらく窺い知ることの出来ない色々な事情があったのだろうと思う。本当は生きて恋の成就を成し遂げたかったに違いない。自分はどうなのだろう。今日まで、自分の心を封印して生きて来た。本当にそれでいいのだろうか? 生きるとはそういうことなのだろうか。亜希子の心は揺れ始めていた。
 澤村は今度はいつ来るのだろうか。亜希子はそのことを少しだけ待ち遠しく感じている自分に気が付いていた。
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