| HOME > 小説の森 > 竹簾 > 第四話 昼行灯(ひるあんどん) |
| 「ママ、三億円事件って知ってる?」 そう云ったのは、塩見さんだった。ある電気メーカーに勤めていたのだけれど、今はその子会社に移籍していた。定年まで間もないのだけれど、その前にこうやって移籍する人が結構いるらしいの。そのことが良いことなのか悪いことなのか、ケースバイケースらしいけど、彼の場合は良い方らしかったわ。 その日は、木曜日だったこともあって、客が少なかった。カップルの客が一組と、塩見さんだけだった。塩見さんが一人でこの店にくることはめったになかったけれど、その日は接待のお付き合いがあって、それから思い立って寄ってくれたということだった。 ゆっくりママと話しが出来る機会がなかったからと、色んなことを話していたんだけど、何のはずみか突然そんな話になった。 「ええ、知っているわよ。結局犯人が捕まらなくて迷宮入りになったんでしょ」 「そうなんだ、他に何か知っていることはないかい?」 「三億円が史上例を見ない高額だったということと、その損失は保険会社が持ったから、一般的な意味で云う被害者がいなかったことね。非常にまれな事件ということかしらね」 「へえ、よく知っているね。もう少しくわしく事件のことを説明するとこうなる」 そうして、彼の話したことを取りまとめると、以下のようだった。 <1968年(昭和43年)12月10日午前9時30分頃、東芝府中工場従業員のボーナス(現金約3億円、ジュラルミンケース3個)を輸送中の日本信託銀行の現金輸送車が、府中刑務所北側の路上に差し掛かった時、後を追ってきた白バイに乗った警察官に制止させられた。その警察官は変装した犯人であり、白バイも偽装されたものであった。警察官になりすました犯人はそこで車体下にもぐり込んで爆発物らしき物を発見(実際は発煙筒を点火する)、行員たちを避難させた。そうして犯人は、輸送車の運転席に乗りこみそのまま走り去った。ところでその行員たちはなぜ、そんなにも簡単に大金を積んだままの車から降りてしまったのだろうか。実は、犯人はこの4日前にも、支店長宛てに脅迫状を送り付けて、何らかの事件が起こるかもしれないという、心理的な伏線を張っていたのである。このようにして3億円が奪われて、1975年12月に時効が成立。戦後最大のミステリーと云われるようになった> 「これには、緻密に練られた計画であることと、色々と犯人に好都合な偶然が重なったこと、そうして警察の初動捜査のミスなどもあって犯罪が成功したという風に云われている。そうしてこの事件には様々な謎があるんだ」 「どんなこと?」 「たとえば『学生運動つぶし説』とか極端なところでは『警視庁陰謀説』まであるんだ。有名なモンタージュ写真にしてもまったく関係の無い人の写真をモチーフしただけの写真だとか、おかしな話が多いんだ」 「ねえ、どうしてそこまで詳しいの?」 「実は、後になってから気になって色々調べたんだ?」 「どうして?」 「ずっと、前に実はこんなことがあったんだ」 そうして、彼の話してくれたことは、なんとも興味をそそられる話だった。 それは、彼の初めての子が生まれた次の年だったから、昭和57年つまり事件から14年後のことだったという話だった。 昼休みだったけど、そのときどういう経緯(いきさつ)だったか先輩のNという男が私たちの所に来ておしゃべりをしていたんだ。皆で五,六人くらい居たような気がする。その中には我が課のアイドル詩織も居た。当時各課には1名ずつ庶務やアシスタント的な仕事をする女の子が居たんだ。私たちの課の彼女はとても可愛くて性格の良い子だったから、結構他の課からもおしゃべりに来るものが居た。彼はそれが目当てではなかったと思うけど、とても楽しそうに話していた。 実は私は入社間もない頃は、設計部門に居たんだ。そこにそのN先輩が居た。設計というとバリバリの優秀な人間ばかりが集められていると思うかもしれないが、必ずしもそうとも云えないんだ。なぜなら、設計という仕事はいろいろなデータや情報が必要になるし、検証するための実験も必要になってくる。それらを一人でこなすこともあるがあまり効率の良い方法とはいえない。特に開発スピードを求められるのが現代さ。だから結構地味な仕事も多いしそのための要員もいるわけだ。 そのN先輩は、もっぱらそういう下支え的な地味な仕事をしていた。しかしそれ以上に目立たないというか、居ても居なくても分からない、つまり昼行灯(ひるあんどん)のような男だった。性格は極めてのんびりしていて、ちょっととろいところはあってそんな性格だから皆からは結構好かれているほうだったと思う。そうして私は設計にしばらく居たが、その後それからあちこちの部門を渡り歩くことになった。 そうして突然そのN先輩が今度見合いをするんだと云い出した。皆は写真はあるのかと聞いたね。彼は少し照れながらああとうなずいた。すると、詩織がその写真を見たいと云いだしたんだ。Nは実は今、会社に持って来ているというのである。皆もそれじゃ持ってきてよと云い出して、彼は自分の席のほうへ走っていった。 それから、彼の差出した写真を皆で興味深々、覗きこんだよ。写真屋で作ったんだと思う、ちゃんとした装丁だった。だが、それを開いた時、皆はあっけにとられた。そして大笑になった。 その時、Nは怪訝そうな顔をしていたな。 何とその写真は、N自身のものだったんだ。勿論、私達が期待していたのは相手の女性だということは云うまでもないだろう? でも、私たちが可笑しくて笑いが止まらなかったのは、それだけではなかった。写真の写りが余りにもよかったからなんだ。確かに本人に間違いなんだけど、あまりに印象がちがうんだ。ひとことで云うとりりしいだな。普段の本人は、ぼーっとしていて昼行灯という言葉が、まったくもって相応しいような男だった。 笑いが収まったところで、それを見ていた仲間の一人が云った。これじゃまるで、詐欺だな。 私も、同感だった。写真写りが良いとか悪いとかよく聞くことがあるけど、これほどのギャップにはそうお目にかかれないだろう。私は、改めて本人と写真を見比べた。確かに本人なのだが、どうも頭の中でイメージが結びつかない不思議な感じだった。 そうして、その写真を見ているうちに、何か心の中に引っかかるものを感じたんだ。その写真はどこかで見た気がしてならない。そうして、気がついたよ。例の三億円事件のモンタージュ写真に似ているってことにね。 試しに頭の中で、ヘルメットを被せてみた。多少太ってはいるがもう少し若くすれば恐ろしいほど見事にフィットしたよ。あまりのことに、私はその場では、つい言い出しそびれてしまった。 Nは例のとぼけた表情で、本人に間違いないんだから可笑しいことないだろうと、腹を立てる様子もなくにこにこしていた。 わたしは、まさかそんなことはあるまいとは思ったが、心の中に小さな灰色の疑惑が浮かんで来て、それをなかなか消すことが出来なかった。 それから暫くして、私は詩織にあることを頼んだのだった。その前にひとつ説明しておかなくちゃならないだけど、私は詩織に好かれているほうの先輩だった。というと誤解を招くかもしれないから説明するんだけど。上司でも女の子から好かれる上司と嫌われる上司がいるのは当然だと思うけどどうしてだと思う、ママ。 「それは、たとえば、セクハラとか?」 まあ、それはガイだと思うけど、女の子がお茶汲みをするのがいかにも当然だとかいう男とか、態度が横柄だったら嫌われるのが当然だろう。サラリーマンなら、部下に好かれるっていうか特に女性に嫌われないってことは、意外と重要なことなんだ。たとえば情報さ、女性はいろいろ情報通なところがある、それが入って来るこないは結構重要なことだろう? それから、いろいろこまごましたことでも、彼女達の協力を得られるかどうかは、仕事の成果にも影響があるほどさ。 ちょっとした気配りとか言葉使いで、彼女達の態度が変わるということを知らない馬鹿な男もまあ実際のところはいるんだけどね。 そんなことで、私はかなり好感されているほうの上司だったと自分では思っている。そのころ社内のIT化(当時はOA化だったかもしれない)もかなり進んでいて、会議室の予約とか、勤怠管理のシステムは稼動を初めていた。しかし、セキュリティ管理の点からか、そういう操作は彼女達アシスタントの専任の仕事になっていた。 そうして、詩織は私にいろいろ教えてくれて、裏技をつかって会議の予約とかいろいろ便宜をはかってくれた。 それで、私は昭和43年の12月の設計部門の有休休暇取得者と欠勤者を調べてもらった。今時であれば、個人情報管理という観点からは微妙な依頼だったのかもしれないが、私という人間は彼女に信頼が厚かったはずなんだ。少なくともそのデータを問題のあるような使い方をするのではないということは思っていてくれていたのだろうと思う。 私は、まさかそんなことはないだろうと思いながら彼女の打ち出してくれた、リストを目で追った。もちろん12月10日の日付を探していた。その日休んでいたものは二名しかいなかった。だが、なんとその一名の名前がNだった! 私は呆然とした。そうしてそれは単なる偶然だったのだろうと思おうとした。だが一度浮かんだ疑惑は私の心の中に澱(おり)のように染み付いた。。 設計部門は、その業務内容からなかなか休みをとりづらい。逆な云いかたをするなら、めったに休みを取らないはずだった。その日が休みだったということは、それなりの重みを持っていることになる。 「それで、どうしたの、もっと調べたの?」 「いいや、それ以上は調べなかった。だって調べたとしたって何かどうなるわけではないだろう?」 「それは、そうね」 「仮にもっと色々な事実が、分かって来たとしても。果たして彼が犯人だなんてことが云える訳が無い。せいぜい限りなく疑惑が深まるだけさ。そうじゃない、ママ」 確かにそうだと思った。徒労という言葉が頭に浮かんだ、まさにこのことだろう。 「それじゃ、塩見さんは、Nさんは事件とは関係ないと結論を出したの?」 「いいやそうではない、分からないというのが正直な意見さ。逆にいうと疑惑は消えないということさ」 「微妙ね」 「そもそも、この事件は謎が多いんだ。僕が引っかかったのはモンタージュ写真の件なんだけど、この写真は信頼性の疑問が持たれ、74年12月に正式に破棄されている。でもこれって何かおかしいと思わないかい。要するに似顔絵だよね。そもそも似顔絵というものはあいまいなもののはずだ、だからあまり似て居なかったということはあるかもしれないが、破棄するとは変だ。私はシンプルに犯人の似顔絵だと今でも思っているんだ、だからNの写真を見た時に驚いたというわけさ」 「じゃやっぱりNじゃないかと思っているのね?」 「否定はできない。物証が多いのにもかかわらず結局犯人はつかまらなかった。なぜそうなったのか、三つの可能性があると思うんだ」 「三つ?」 「そうさ、一つ目はなんらかの、権力的もしくは政治的な意思が働いたのではないかという可能性。だから、国家陰謀説さえ囁かれているのさ。二つ目はなんらかの不測の事態で犯人が亡くなってしまっている場合。これもよく取り上げられるパターンだ。そうして三つ目だ」 「塩見さんは、その三つ目の対象者がNさんだと思っているんでしょう」 「ご明察、三つ目は要するに思いもかけない人物ということさ。容疑者リストに載ったのは実に11万人という空前の規模だったそうだけど、果たしてNはこのリストに載っていたのだろうか? 僕はそうじゃない気がする。彼はあまりにも平凡で目立たない人間だった」 「そのNさんは、その後どうしているの?」 「その時の写真でかどうかはしらないけど、見合いをして結婚したはずだ。会社を辞めるまではごく平凡に暮らしていたよ、その後は知らない。ただ後から彼のことを思い出すと、やはりいくつか気になることがあるんだ」 「どんなこと?」 「まず、当時彼は二十歳だった。そうして身長は僕とほとんど変わらないから169か170Cm位というところだろう。後から思い出したことなんだけど、彼はバイクを乗るということだった。実は僕は学生時代バイクに乗っていたんだ。何かの飲み会の時そんな話になって聞いた記憶がある。普通ならそんな他愛も無いことは、忘れてもおかしくはなかったんだけど、忘れなかった」 「どうして?」 「やはり、意外な気がしたからさ。その時でさえイメージが合わなかったんだな。それと、一度だけ彼の車に乗せてもらったことがあるんだけど、中古のかなりガタの来ているカローラだった。意図的に同じ車種をえらんだかどうか、まあ当時から大衆車の代表みたいなものだったからこれは単なる偶然かもしれないが。あと、これは結構重要だと思うんだけど、会社と東芝府中工場とは直接ではないけれど、あるつながりがあったということなんだ。ただ、土地感については分からない。彼の住んでいたところは、記憶があいまいなんだけど神奈川寄りだったような気がする。でも、僕はこう考えたんだ」 「どんなこと?」 「当時の会社は、世の中の動きにつれて業績も順調に伸びて、それなりの企業になりつつあった。彼は、高卒で入社したはずだ、設計部門に配属になって初めは喜んでいたかもしれない。でも最初に説明したように陽の当たる場所には立てなかったはずだ。とういうより、サラリーマンとして出世の行く末といものが見えてしまったはずだ。僕は学卒で昭和48年に入社したんだけど、入社して間もない僕達でさえそんな空気を感じ取っていた。だから、彼が誰にも見せない心の中で、悶々としたものを抱えていなかったとは云い切れないと思うんだ」 「なるほどねえ、人の心の中は分からないもの」 「この犯行は相当周到に、準備されている。もし、何ヶ月単位じゃなく1年間位かけて練られたものだったら、土地感の習得など訳の無いことだとも思える」 「まあ、すごい執念ね」 「ママ、僕はふとこんな光景を想像したことがあるんだ」 東芝府中工場の社員食堂は、大方の者が食事を終えて、テーブルにも空きが多くなっていた。 Nはテーブルに座って窓の外を眺めていた。 「ようN、なにぼんやりしているんだ、一人で?」 「ああ、宮崎さん」 「いよいよ教育も、今日で終わりだな」 「本当、先輩にはいろいろ面倒みてもらって感謝しています」 「なにもたいしたことはしちゃいねえって、なんかしけた顔してんな。タバコは吸わねえのか」 「普段は吸わないんです」 「何だ、得意の節約か? 一本やるから吸え」 「ありがとう、ございます」 「おめえを見ていると、他人とは思えないが。俺はお前のようには出来なかったな。何が面白くて生きているということになる」 「はあ」 「まあいい、一生懸命やるのは悪いことじゃない。だがな、息をするために生きているんじゃないんだろう?」 「はあ」 「どうだ、今日終わったら飲みに連れてってやる。行くか?」 「いいんですか? もちろんですよ」 「じゃ決まりだ」 「そう云えば、今日宮崎さんとこボーナスなんですね。いいなあ」 「お前のとこだって出るんだろう?」 「来週です、でもうちのような子会社なんか宮崎さんのとこから比べたらずっと少ないですよ」 「そうか、出るだけましだと思え。もっとひどいところもあるからな。それよか欲しきゃなんか自分で考えるんだな」 「そんなこと云ってもサラリーマンはどうにもなりませんよね」 「まあな。そういえばさっき現金輸送車が通ったって誰かが云っていたな」 「何ですか?」 「今日の俺達のボーナスさ、とんでもない金額さ。これだけの金が運ばれてくるから、あるところにはあるものさ。ほんと少しくらい、どうにかならないものかと思うよな、N」 「そうですね」 関連会社から集められた若手社員の研修教育が今日で終わろうとしていた。 宮崎は、N達のグループの面倒を見てくれた男だった。地方出身者の彼はNと同じ境遇で父親が居なくて育った。そのせいか、Nを目にかけてくれた。 自分の会社には、居ないタイプの男だった。Nはこの男と出会ったことで、何か自分の運命が変わりそうな予感がしてならなかった。 その話を終えると、彼はぐい飲みをあおった。 「本当にそのような話があったのでしょうかね?」 「さあね、我々の知らないドラマはたくさんあるものさ。だから近いことは、あったかもしれない。だけど、真相は闇の中さ」 「そうね、分からないことは分からないのね」 「さて、時間も遅くなってきたし、そろそろ帰るとするか」 そう云うと、塩見は立ち上がった。 |
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