HOME > 小説の森 > 竹簾 > 第五話 灰色の境界
「やあ、ママ」
 そう云って入ってきたのは、戸沢郁夫だった。ある区役所に勤めている男だった。たまにしか来ないが、必ず仲間を連れてきてくれるし、酒の飲み方も楽しい男だったから彼の名前を覚えていた。
 今日彼と一緒に入ってきた男は、同じ年位のなかなか良い男だったわ。
「しばらくぶりね、戸沢さん。元気だった?」
「貧乏暇なしとはいうけれど、元気なことだけがとりえの戸沢でした」
「あら、いまどきこの世知辛い世の中で、お役所勤めなんてうらやましい限りだわ」
「お役所ったっていろいろあるんで、僕のところはえらく大変なんだけど、まあそうかもしれないな」
「お連れの方は、初めてよね?」
「そうなんだ、僕のまあ幼馴染ということになるのかな」
「ということは、北海道の方かしら?」
「そうなんです、斎藤といいます。さいは少しだけ難しい斎です。戸沢とは小学校時代の同級生で、それからどういうわけか途切れもせず付き合いが続いています。実は今日その北海道から飛んで来たんですよ」
「あら、まあそれはご苦労さんね。お仕事かしら?」
 それには、戸田が答えた。
「ママ、実はね結婚式があるんだ。中村といってやっぱり僕らの小学校時代の同級生なんだけど、明日結婚するんだ」
「まあ、それはおめでたいわね。ところで、戸田さんって幾つでしたっけ?」
「三十二だよ」
「そうすると、その中村さんって方も同じ年?」
「そうだよ」
「それは良かったわね」
「本当さ、僕らもどうなるのかなと思っていた」
 戸田が云った。
「本当は今日、中村もここに連れて来たかったのだけど、いろいろ新郎も準備があるからそうはできなかったけどね」
 そう云ったのは斎藤だった。
「そうね無理させちゃいけないわ、新郎さんはそっとしておいてあげたほうが良いの」
「そのうち、いつか連れてくるから」
 そう云ったのは、もちろん戸田だった。
「ぜひそうお願いするわ、ところで、戸田さんが北海道に居たということは聞いていたけど、あまり詳しい話は伺ったことはなかったわね」
「そうかもしれないな、これまで特にそんな話が出たこともなかったしね」
「斎藤さん、もう北海道は寒いのかしら?」
「まだそれほどじゃないよ、丁度残暑が終わったところかな」
「私は北海道は行ったことが無いの、一度行ってみたいと思っているの」
「ぜひ、来てくださいよ。いろいろ見所は多いし、食べるものも美味しいですよ」
「そう聞くと、ますます行きたくなるわ。なにかお勧めのコースなんてあるの?」
「ママは運転するの?」
 そう聞いたのは、斎藤だった。
「何言ってんだ、ママはスポーツカーに乗っている位なんだ。だからバリバリさ」
「そうなんだ、それなら、時間をたっぷり取ってあちこちドライブすることをおすすめするよ。一押しは、夏のオートキャンプ巡りだね。北海道の取って置きの自然に触れることが出来るし、最近は設備もなかなか充実していて、格安で泊まることができる。それに美味いものを食べたいんなら、街のホテルに泊って夜の街に繰り出すという手もあるよ」
 私は彼の話を聞いて、本当に北海道に行ってみたいと思った。だけど、そうそう休みをとることは出来るわけがないし、当面は夢としておこうと思った。
 その時お客が三人ほど入ってきて、私はその応対に追われた。そうして、二人の話に加わった時には、斎藤が住んでいる街の話になっていた。

「へえ、町内会の役員をしているんだ。偉いな」
 そう云ったのは、戸沢だった。
「そんなことはないけど、そういう付き合いもなかなか良いもんだぞ。お前なんか仕事以外での付き合いなんてものはあまり無いんだろう?」
「まあそうだな。俺のところも町内会はあるが、仕事のことにかこつけて大体パスしているな。町内会をやっているのは、お年寄りが多いんじゃないか?」
「うちもそうだな、たしかに高齢化はしているけど皆いい人達ばかりで、いっしょに飲んだら楽しいぞ」
「それは、何か良さそうな雰囲気だな」
 だけど、斎藤の話は思わぬことになっていった。
「ああそういえば、去年の夏のことになるが、恒例の親睦会ということでバーベキューをやったんだ。結構盛り上がって、毎度のことだが二次会に行こうということになった」
「なるほど」
「その二次会で、俺は思わぬものを見てしまったんだ」
「それは、何だ?」
 斎藤はそれにはすぐ答えず、酒をゆっくり飲み干した。
「俺の住んでる街はそんな小さな都市ではないが、かといってこちらの方のように大都市ってわけじゃない」
「それが、どうした?」
「だから、わりと狭い街だということだ」
「そりゃそうだ」
「だから知った顔に出会う可能性も高いだろう」
「なるほど」
「よくニュースで聞く話だけど、贈賄とか収賄とか良く聞く話だな」
「ああ、それに政治家の醜聞とか俺は関係ないけど役人の不正とか、きりが無いよな」
「そうだ、だけどそれってやっぱりどっか別の世界の出来事というか、我々には現実感に乏しい出来事だよな」
「確かにな」
「二次会に行ったのは、八人だったんだ。そこはけっこう良い店だった。スナックだったけど、町内会で行くにはちょっと高級な店だったな。副会長がボトルをキープしているからということだった。当然のことだけどボックス席に座ったよ」
「それで?」
「その町内会のメンバーに司法書士事務所を開いている島泉という人がいた。とても気さくな人柄で、いっしょに酒を飲むのが楽しい人だった」
「その人が、どうかしたのか?」
「しばらく飲んでいたんだけど。しきりにカウンターの方を気にしているんだ。その視線の先には、カウンターで飲んでいる二人の男がいたんだ。二人ともスーツ姿だったな」
「ふうん」
「そうしたら、突然島泉先生は立ち上がるとカウンターに向かって歩き出したんだ」
「へえ、それは」

「やあ、神沼さんじゃない?」
「あれ、先生いつもお世話になっています。今日は、珍しいですね?」
「いや、ちょっと町内会の寄り合いがあって、その流れなんだ」
「そうですか、私は昔の同窓生といっぱいやっているんですよ」
「隣にいた男は、丁度神沼と呼ばれた男の影になっていてよく見えなかったが、先生に軽く会釈をしたように見えた」
「そうですか、ごゆっくり。それじゃ失敬」
「手を上げると、先生は我々の席に戻ってきた。何事かとそれを眺めていた町内会の仲間も、またそれぞれにもとの話に戻っていった」
「それからどうしたんだ?」
 私も戸田も斎藤のその話にすっかり引き込まれていた。
「それから程なく、その二人は店を出て行ったんだけど、神沼という男はこちらの方に来て先生に手を上げて挨拶をしていったよ。体の大きながっしりした感じの男だった。ごく普通の様子だったが、目つきだけは妙に鋭い感じがした。年は40過ぎというところかな、だが連れの男を見て俺は、はてなと思ったよ」
「どうしたんだ?」
「雰囲気がまったく違う。それにどうも堅気にはみえなかったのさ。年は同じくらいだがひょろっとした男で、派手な青いシャツを着て紅いネクタイをしていた。なあ、だいだい察しがつくだろう?」
「なるほどな」
「二人が出て行ってから、俺は先生に聞かずにはいられなかった」

「先生、あの二人はお知り合いですか?」
「いやね、どうもおかしいと思ったんだよ。同窓生と云ってはいたけど、あれは嘘だよ」
「えつ、嘘ですか?」
「あの連れの男、どうもどこかで見たことがあると思ったんだけど、今ようやく思い出したよ確かDの経営者だよ」
「Dというとあの郊外のパチンコ屋ですか?」
「そうさ」
「そうして、神沼という人は?」
「警察の人間だ」
「ええっ、警察官ですか?」
「厳密に云うと違うかな。遊技場関係を取り締まる部署の幹部さ」
「そうなんですか、でもそれって、随分怪しい関係じゃないですか」
「そのとおりだよ、ひどくきな臭い話だ」

「その時、普段温厚な先生の顔が一瞬厳しい表情になっていた」
「そんなことがあったんだ」
「俺は、そんなことが本当にあるんだと、その時実感したんだ。俺達普通の一般市民はそんなようなことに関わることはまず無いが、だがやっぱりそいうことってあるもんなんだな」
「日常に潜む灰色の世界を垣間見たってわけか?」
 戸田が云った。
「そうだな。だけど俺は思ったよ、取り締まる側の人間がどうしてそうなってしまったのかと」
「いろいろ誘惑の罠があるものさ、店にすればあの手この手を考えるからな」
「ほう、お前がそんなことを云うとはな。なるほど役人だからそんなこともあるのか?」
「無いといえば嘘になる。あとは、その人間の生き方だろう。ただ甘い話には、落とし穴があるものさ。そう思った方がいいのだろうと、俺はそう思っている」
「正解だろうな、ところでさっきの話は後日談がある」
「何だ?」
「今年になってからのことだが、気が付いたらD店が休業していたんだ。どうやら、警察の取り締まりに引っかかったらしい」
「それじゃ、さっきの話は?」
「それで、俺は伝手でちょと調べてみた。神沼という男は前の年に地方へ飛ばされたらしい。その理由は結局は分からないというか、知ることはできなかったけどな」
「当然、なにかあったのだろうな」
「ああ、俺もそう思う。だけどニュースとか新聞の記事とかそんなことは出なかったよ。その後、島泉先生に会うことがあったんでそのことを聞いてみたが、軽くいなされて何も教えてもらうことは出来なかった」
 
 私は思った、世の中にはいろんなことがあるけれども、私たちの知らないところでもいろんなことがあるのだろうと。
 神沼は同じ仕事をしているのだろうか、何らかの不正があったのかもしれないが、果たして本当に彼の単独の行動だったのだろうか?
 公には、彼のことが記事などになることはなかったそうだ。それはうまく自浄作用が働いたからだろうか?それとも、もしかしたらトカゲの尻尾切だったのかもしれない。そう思うのは、私の考え過ぎなのだろうか?
 いずれにしても、もう終わってしまったことだから、その真実が私たちの目に触れることはないのだろう、そう私は思った。

 帰るときは二人ともご機嫌だった。斎藤はこの店が気に入ってくれて、名残惜しそうだった。こちらに来ることがあれば必ず顔を出すと云って、暖簾をくぐって行った。
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