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第十一章  黄昏に
 
 私は、酒が好きであるが、晩酌をすることは滅多にない。するのは寝酒ということになる。なぜなら、早くから飲んでしまうと、それからの時間は何もすることが出来なくなってしまうからである。一日が終わって、好きなビールなりを手にする時は、私にとって至福のひとときであった。

 今日は日曜日なのだったが、日中は今時には珍しく暖かい一日であった。思い立って私は、今日は早くから飲むことにしていた。

 我が家は、私の帰宅が遅くなることもあって、皆で食事をするということは少なかった。皆それぞれ好きにやっているということであった。だが、日曜の夕食だけは、一応皆で揃うということが暗黙の了解のようになっていた。それでも、食事が終わると息子はさっさと自分の部屋に、引きこもったし、私は私で二階の自分の部屋というか、書斎もどきの部屋に行って、自分の好きなTV番組を見るか、場合によっては仕事のことをしたりしていた。妻と娘は、大概は茶の間でTVを見ていた。

 夕食の準備が始まる前に、今日は飯はいらない、おかずをつまみに飲むといってあった。妻は、どういう風の吹き回しという顔をしたが、特に文句を言うわけでもなかった。

 白井と飲んでからは二週間ほど経っていた。一昨日、彼からの礼状が届いていた。とても、楽しい酒であったこと、機会があればぜひまた飲みたいと書いてあった。彼のその葉書のせいか、私は、今日は少し感傷に感傷に浸りたい気分であったのである。

 夕食が終わると、私は缶ビールと枝豆の入った皿を抱えて二階のベランダに出た。あらかじめ置いてあったキャンプ用の椅子を開くと、腰を下ろした。陽はすっかり落ちていた。昼間の暑さはもう無かったが、それでも寒さを感じる程ではなかった。すでに街灯には明かりがともっていた。目の下に見える私の家の前の道路は、私の子供の頃はまだ舗装されていなかった。なぜか、脈絡も無くそんなことを思い出していた。

 倉石絵里、そう声に出して彼女の名前を云ってみた。白井には話していなかった、彼女の思い出があった。

 私は、小学校に通学するとき、往きと、帰りでは違う道を選んでいた。朝は、いわるゆメインストリートというやつで、もちろんのことに時間的には最短であった。そうして、帰りは、どこだかの家の裏の細い道を抜けたり、野原を通ったり、畑をよぎったり、小川の横を通ったりと、道草をして帰るのが私の楽しみであった。そのルートはいくつかあったが、その日の気分や、一緒にいる友達によって、そのコースを選んでいた。
 ある秋の日のことであった。その時は私は一人であった。放課後、グランドで遊んでいたものだから、あたりはもう薄暗くなり始めていた。私は、いつもの、あるコースを選んで家路を急いでいた。その何時も通る道には、洒落た二階建ての家があった。当時は、まだ木造の質素な家が多かった頃である。その家は、白い壁の西欧風の建て屋で、わたしはどんな金持ちが住んでいるのだろうと思いながらその前を通り過ぎていたのである。
 家の前は、庭になっていて、通りに面した所に小さい門柱が立っていた。その日は、門柱の傍に、見慣れないものが積んであった。幾つかの家具とステレオであった。そうして、それらはいずれも焼け焦げて黒くなっていた。

 私は、もしかしてと思ってその白い家を見た。二階の左側の部分が焼けていた。
 私の家には、ステレオなどはなかった。だから私は、そのステレオが珍しくて、しばらくじっと見入っていた。
 すると、正面の扉を開けて、誰か近づいてきた。驚いたことに、倉石絵里であった。
 「島崎君」
 「倉石さんか。驚いたな、ここの家は、君の家だったんだ」
 私は、二つの意味で驚いていた。一つ目は、単純にこの家は、彼女の家だったということである。もう一つは、倉石が、金持ちの娘だったということであった。
 学校では、決して目立たない生徒であったし、金持ちだというような、噂を聞いたことも無かった。
 「そうよ、島崎君が家の前を通るのは、何度か見たことがあったわ」
 「ふうん、そうだったのか。それより、火事になんたんだ」
 「幸い、ボヤだったから、大したことはなかったの。でも、そこに置いてあるの、消火の時の水でみんなダメになってしまったの。その、ステレオ父さんがとても大切にしていたものなのに」
 そう云うと、彼女は悲しそうな顔をした。
 「それは、大変だったね。でも、怪我しなくてよかったね」
 「それは、そうなんだけどね」
 「君のところだったら、また買えばいいんだから、元気出しなよ」
 「ありがとう」
 今になって思えば、当時の私は、ひと事だと思ってまったく気楽なものの言い方をしてたものだ。
 「島崎君、いつもこんなに遅く帰るの」
 「いいや、グランドで遊んでいたら、つい遅くなってしまったんだ」
 「島崎君、スポーツ得意だからね。うらやましいなあ」
 私は、そのとき彼女と話しながら、思いもかけないことに気が付いていた。そういえば、彼女と面と向かって近くで話をしたことはなかった。
 彼女は、特徴の無い顔つきをしていた、とそれまで私は思っていた。だがそれは、彼女がわりとおとなしい性格で目立たないから、そう思い込んでいたのかもしれない。
 私を見ていた彼女の目は、少し切れ長でそうして、瞳が吸い込まれるほど黒く、そうしてきらきら輝いていた。いつもの彼女と、別人のような気がした。
 「あのね、まだ、誰にも言ってないんだけれど、私転校するかもしれないんだ」
 「えつ、本当に」
 「父さんの仕事の関係なの、転勤するかもしれないんだって」
 「そうか、それはさびしくなるね」
 「まだ、決まったわけではないけどね。このこと誰にも云わないで。約束してくれる」
 「ああ、約束するよ」
 もう陽が沈んでいた。あたりは急速に暗くなり始めていた。
 「それじゃ、もう帰らなくちゃならないから」
 「さようなら」
 「さようなら」

 私は、彼女に背を向けて歩き始めた。そうして、どうして誰にもしゃべっていないことを、自分に言ったんだろうと、ふっと気になった。
 そうして、しばらく歩いてから振り向いて見た。彼女はまだそこに立っていた。すっかり暗くなっていて、彼女の姿は黄昏に溶け込んでいた。
 だが、じっと目を凝らすと、不思議なことに、彼女の顔が薄闇に浮かぶ白い卵のように見えた。
 私は、手を上げるとその手を左右に振った。彼女は、軽く手を上げた。そうして、表情を読み取ることはできなかったけれど、彼女が微笑んだ気がした。

 年が明けて、登校したときには、彼女はもう転校していた。

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