第四章 ジャングル
「僕が会社を辞めようと思ったのは、もちろん今回のことが理由であることは間違いないが、それと早期退職でメリットがあったということも理由の一つになると思う、だが本当は自分自身が前から辞めたいと思っていたのではないかと思うんだ」
私は、白井のその言葉に驚いていた。
「実は、誰にも話したことはなかったが、こんなことがあった」
そう云った、白井の顔は真剣だった。なにか、大切なことを話そうとしているに違いなかった。だが、私は彼と会う前からそして会ってからも、なぜ彼はこの俺に、そんなことを話そうとしているのか、不思議に思えてしかたがなかった。なぜなら、彼は私が小学五年になった時に転校して来て、冬休みが終わり新学期が始まった時には、そのクラスには彼の姿はなかったのである。もちろん、話をしたことはあったが、特に親しい間柄ではなかった。私は、ぐい飲みに注いだ冷酒を呷ると、彼が話始めるのをじっと待っていた。
「僕が入社して配属された部門は設計部隊だった。同期の理工系の出身者もほとんどそうだったから、まあごく普通のスタートを切ったというところだと思う」
「そうなんだ」
「ところが、三年ほどして、その設計部門を出されて、それから様々な部門を渡り歩いたよ」
「なにか、あったのか」
「特別なことはなかったと思うが、ひとつには、僕が上司に余り気に入られていなかったところもあるだろうし、島崎も知っているようにあの当時は企業も厳しい時期であったから、ある意味止むを得なかったところもあるのだと思う」
「なるほどね」
「それにしても、同期の連中と比べたら、すいぶん色んなところを回ったことは間違いないよ」
「それは、随分大変だったろう」
私は彼が新しい職場で孤軍奮闘している様子が目に浮かんで些かの同情を感じてそう云った。
「そりゃあ、確かに苦労もしたよ。でも後になってからは、それは自分にとってラッキーなことだったんじゃないかと思うようになった。実際のところ、色んな経験が後になってから実務のうえでも、役にたつことがずい分あったよ」
「それは、良く分かるよ、俺も同じような経験をした」
「『人間塞翁が馬』という言葉を知っているだろう。何が良くて、何が悪いかなんてことはその時にはなかなか分からないものだとつつくづく思った」
「確かにな」
「ところで、そう長い期間ではなかったけど、ある部門の購買グループと一緒に仕事をしたことがあったんだ」
「購買グループ?」
「購買部門てのは、会社によっちゃ名前が違うことがあるが、要は資材とか部品とかを調達する部門だ」
「ああ、要は調達部門のことか」
「ところで、外注、最近はその言葉が見下しているようだということで、取引先とかいったりするが、その外注さんといわば直接的にお金に絡む業務を担当しているのが購買さ」
「俺達は、外注どころか下請けだよ」
「会社は、安く買いたい。取引先は高く売りたい。君もよく分かると思うが、そこで色々な思惑やら駆け引きが駆け巡るわけさ」
「そりゃ当然だろ。それが商売ってものさ」
「なにより、企業は、熾烈なコスト競争を勝ち抜いていかなければならない」
「企業のいわば、宿命だな」
「しかし、従来型の対応では今までさんざん遣り尽くしているわけだから、ある限界もあるわけだ」
「まあ。、そうかもしれないな」
「こで、そのコスト削減について、技術的な側面から支援をしていこうというのが、我々、ああ僕らのメンバーは三人だったんだが、その我々に与えられた仕事だったというわけだ」
「なるほど」
そこまで一気にしゃべると、彼も冷酒を呷った。私は、彼の話にすっかり引き込まれていた。仕事の話であれば、どこでも同じようなことがあるものである。
「なかなか、厳しい仕事じゃなかったのかな」
私はそう云った。
「そりゃそうさ、まず購買グループに取っちゃ僕らは強力な助っ人なのだが、考えようによっては自分達のテリトリーに踏み込んできた部外者という見方をすることも出来なくはない」
「微妙話だな」
「それに外注さんに取っては、今までのしがらみが無い我々の存在を、新規参入のチャンスと捉えるところもあれば、在来の外注さんにとっては目障りな存在に感じるところもあったはずだ」
「なるほどな、それじゃますます大変そうだな」
「まあ、それでも、担当者ベースではお互いに旨く遣っていこうという、暗黙の了解みたいなものはあった。それは理解してもらえると思うが」
「それはそうだろう」
「それでも、ずっと技術畑を歩いてきた自分としては、彼らとは感覚的に合わないところもあった」
私は、それほどそういう風に感じたことはなかったが、それでも彼の云うことは理解できた。
「別に、区別をしようというつもりはなかったが、彼らは、文化系出身者がほとんどで、我々工学部系出身とは、やはり肌合いが違うと感じるのは、当然といえば当然かもしれない。まあ、彼らから色々学ぶところもあったが、特にはいい加減だなと感じるようなところもあったよ」
そういえば、白井は同級生の時、真面目な奴で通っていた。急にそんなことを、思い出していた。結局そこのところは、ずっと変わっていなかったのだろうな、私は話を聞きながら、そう思った。
「ところで、その業務に就いてから驚いたことがひとつあったんだ。急に付け届けが来だしたんだ」
「それは、また」
「前の職場の時は、課とかグループ宛てに中元とかお歳暮の来ることはあったが、個人宛に来たことなどなかった。まあ、せいぜい安い居酒屋でいっぱいご馳走してもらうことは、なかったとは云わないがな」
「やはり、その部門の役得なのかな」
「さっきも言った様に、そのときの僕は購買担当そのものではない、云わばはみ出しのような者だし、駆け出しの下っ端のようなものだった。だからもし直接の担当だったり、もっと上にいたのだったらどうなんだろうなと、ふとそんなことを考えてしまったよ」
そういった彼の顔は、特別な表情を浮かべてはいるわけではなかったが、彼の性格故にそのときの心情を思い図って私は複雑な思いに駆られた。
「もちろん、会社では取引先からの金品の受領というものを、公には認めていなかったが、所謂常識の範囲内でということは行われていたようだ。グレーゾーンて云うことかな」
「でもな、俺みたいな土建屋なんて、グレーゾーンもいいとこだぞ。だいたい仕事なんてのは、突き詰めれば人間相手だし、人間自体がグレーゾーンの塊じゃないか。そうは思わないか」
私は、結局本音のところを云った。
「確かに、そうかもしれない。それまでの自分は、世間知らずの若造だったのかもしれない。仕事とかサラリーマンということについて一端のプロのつもりではいたが、ほんの上っ面しか分かっていなかったのだと思う。決して甘くない人生というジャングルに足を踏み入れていることに気が付いたのは、その時だったような気がする」
そう云うと彼は、感慨に耽ったのだろうか一瞬、遠いところを振り仰ぐような仕草をすると視線を落した。
目次 次章