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第五章  ビヤホール

 「あるとき、まだ結構暑かったから、夏が終わった頃じゃなかったかと思うんだ。その日僕はもう一人の先輩と、ある講演会に行った。それは確かコスト削減に係わる内容で、もちろん業務として出席していた。結構大きな会場で、映画館のような席に、先輩と並んで座っていた。先輩は入り口で受けとったパンフレットに熱心に見入っていたが、僕は自分の会社から、他に誰か出席していないんだろうかと、会場を眺めていた。そうして、左前方のそう離れていないところに、購買課の高村課長の姿を見つけた」
 「一人だったのか」
 「近くに見知った顔はなかったんだ。だから、彼一人のようだった。彼もパンフレットを覗き込んでいたよ。こちらには気が付いていないようだった。それから間もなく公演が始まった」
 私は、白井が話をしようとしていたのは、その高村課長のことなのだろうと感じていた。彼は、会社のことを話し始めていた。

 「高村課長とは、同じフロアーで席も自分達のところから遠いほうではなかったが、ほとんど話をしたことはなかった」
 「そりゃ、またどうして?」
 「一番の理由は、僕らのグループは購買課と連携はしていたが、組織上はまったく別の系統になっていたんだ」
 「それはまた、どういうこと」
 「僕らのグループは、リーダーの高橋課長と大澤という先輩とそうして僕の三人だったんだ。そうして、高橋課長の組織上の肩書きは、工場長付きということで、要するに特命課ということだったかな」
 「それで、指揮系統が別だということか」
 「だから、購買課の担当者と違って高村課長とは業務上での接触をすることはなかった」
 「なるほどね」
 「物をつくる会社にとって製造課がその中心であることは間違いないが、購買課もある意味最前線の部隊ともいえる」
 「車の両輪みたいなものということか」
 「だから、そこの課長であればその責務の重要さと忙しさは大体想像できるだろう。入れ替わり立ち代り外注さんが挨拶にくるし、そのフロアーで最も存在感のある人物ではあったと思う」
 「なるほど、そういうポジョションにいたということだな」
 「顔や先入観で人を判断してはいけないと思うが、僕ははっきり云って、彼に余り良い印象は持っていなかった」
 「それは、どうして」
 「彼は、かなり太っていて、なんとなく偉そうにしているように僕には見えた」
 「それは、たしかにちょっと先入観で見すぎているかもしれないな」
 「後から、僕もそうは思ったが、もう一つ気に入らないことがあったのさ。お偉いさんが来たときは、米搗きバッタのようにやたら頭を低くしていた。当時の僕は、若くて出世何てことはまったく考えてもいなかったし、課長に食いついては先輩にたしなめられることもあった位だ。だから彼のことは、信用のならない腹黒い男ではないかと、こころの中で密かに思い込んでしまったんだ」
 「うーん、それも一寸思い込みがきついかもしれないな」
 「当時の自分では、まあしかたがないことだったのかもしれない。さっき話した、付け届けのこともそう思ったことのひとつではあったんだ」
 「まあ、それは理解できなくも無いがな」
 「それと、彼は付き合いが悪いということでは右にでるものはなかった。大体課長クラスだと、酒だとか女の話とか何らかの噂話が社員の間に流れるものだが、まあ大体が罪の無い酒の肴の話なんだが、彼の話はついぞ聞いたことがなかった」
 「それは、単なる付き合いが良くないだけで、白とも黒ともいえないことだろうな」
 「しかし、一番僕の彼への印象を悪くしていたものは、彼の表情だったと思う。いつも、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。彼が笑ったことはなかったはずは無いんだが、不思議とどうしても僕は彼の笑顔というものを思い出すことが出来なかった」
 「それは確かに、良い印象にはならないだろうな」
 私は、一応の相槌を打つことはしていた。
 「とにかく、そんなことだったから、それから高村課長と会話を交わすことになるとは、その時は夢にも思っていなかったよ」

 「講演が終わったときは、映画の終了と同じようなものだな。どっと皆一斉に出口にむかうものだから、ひどい混雑振りになった」
 「その講演会は、結構な人数だったんだろうな」
 「ああ、そうさ。僕は一応、先輩と離れないようには気を使っていたつもりだった。出口から出たとき、丁度高村課長と一緒になった」
 「そうか」
 「僕から『課長もこちらにいらっしゃっていたんですね』と儀礼的な挨拶を交わしたよ」
 「当然だろうな」
 「それから、僕達三人はいっしょに駅に向かった。今となっては、そこがどこの駅だったか、思い出せないんだけど、新宿からそう遠くないところだったと思う。そこから新宿に向かった」
 「新宿か、懐かしいな」
 「それから、棒らは新宿の駅のホームで三人で並んで、立っていた。確か三人ともそこで乗り換えだったと思う」
 「それじゃ、電車を待っていたんだな」
 「ホームに風が吹き上げていたんだけど、残暑でまだ蒸し暑かった。そうしてホームから見える街並みはまだ明るかったけれど、陽はだいぶ傾いていて、僕らの影は線路の上に長く伸びていたのをなぜか覚えている」
 私も、短い期間であったが東京に住んでいたことがあるので、夕日に照らされたホームが目に浮かんだ。そしてスーツ姿の何の変哲もなくたたずむ三人のサラリーマンの姿を思い浮かべて、ふとその時三人は何を考えていたのだろうと、そんなことを思った。

 「そのときは、丁度電車が出発したばかりで、次の電車まではそう長い時間ではなかったにしろ少し待たなければならなかった。僕達三人とも特に何かを話すでもなく、沈黙していた。すると、突然高村課長がこう言い出したんだ」
 「大沢君、白井君、よかったらちょっと付き合わないか。喉が乾いたんだ」
 「その高村課長の言葉には、大澤先輩もさすがに驚いたようだった」
 「なぜ驚いたんだい」
 「さっきも説明したように、僕らは高村課長はそういうさばけた人間とは思っていなかったからさ。だが、こちらに断わる理由などないし、ましてや他課の課長に声を掛けられたのだから、二つ返事で同行することにした」
 「なるほど、そういう展開になったのか」
 「会社が終わってから、ちょっと寄るところといえば普通は居酒屋だろう。でも、高村課長が酒を飲むという話は余り聞いたことはなかった。だから、まさか大の大人が喫茶店も無いだろうとは思ったが、どこに行くのか多少の危惧みたいなものは感じたよ」
 「なるほどね」
 「大澤先輩も私も、呑むのは結構好きなほうだったから、その大澤先輩もきっと自分と同じことを考えているのではないかと思いながら歩いていた」
 「居酒屋では、なかったんだろう」

 「そうなんだ、課長の後について入った僕達は、思いもかけないところに入ったよ。そこはつまりビヤホールだったんだ」
 「洒落たところに入ったものだ」
 「最初は僕もここはなんだろうと思ったよ。店内は比較的明るくて、なんとなく華やかな感じがした。中央のステージではミニバンドが生演奏していて、テーブルの数は数え切れないくらいの広さだった」
 「新宿は、行ったことはないけど、俺もビヤホールは何度かいったことがある」
 「僕達はテーブルに着くと課長に云われてもちろんのこと生ビールを頼んだよ」
 「それは、そうだろうな」
 「そのとき先輩が、課長は酒を飲まれるんですかと聞いたら、飲むには飲むけれど、ほんの少しさと、課長がそう云ったのを覚えている。でもそれから、何を話したのかはよく覚えていない。おそらく、大した話などしていなかったのだと思う」
 「課長は、やはり余り飲まなかったのかな」
 「課長はバンドの演奏にじっと聞き入っていたよ。そうそう演奏していた曲の中には、ラテンナンバーもあったな。そうだな、ビールはぐいぐい飲む感じじゃなかったね」
 「やはりな」
 「僕は大好きなラテンが演奏されたこともあってひどく満足だった。だから、ステージ演奏が終わった時に、ここに、こんなところがあったなんて、全く知りませんでした、と云わずにいられなかった。でもその時の高村課長は、今は誰も居なくなったステージの上に、じっと視線を当てたまま、こう云っていた。『僕は、学生時代に、よくここに来たことがあるんだ』」
 白井は、そこまで一気にしゃべると酒をあおった。
 「僕は、高村課長のその言葉をとても不思議に感じたことを今でも覚えているんだ。そうして、そこでの課長の表情が強烈な印象として残った」
 そういってから、白井はしばらく口を噤んだ。
 「そこには、そんなに長い時間は居なかったと思う。僕と先輩は生ビールを二杯飲んだのかな。高村課長は一杯だけだったが、全部は飲みきっていなかったと思う。店を出てから、先輩と僕は、課長にご馳走になったことの御礼を云った。高村課長と、僕と先輩とは方向が違った。そこで、高村課長とは別れた」

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