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第六章 悲しい出来事

 「次の日、一応お礼は云ってあるが、ひとこと改めて高村課長にお礼を言おうと思っていたんだが、例によって課長は朝から忙しそうだったし、こちらも会議が立て込んでて出来ずにいた」
 「相変わらず、課長は忙しいという訳か」
 「そうしたら、昼休みになって食事に行こうとした時、丁度課長と目があったんだ。こちらが目礼をすると、手を上げてやあという様子だった。課長は一人で机に向かってまだ、なにか仕事をしていたよ」
 そう云うと、白井は話し続けた息を休めようとするかのように、酒を注ぐと静かに口に運んだ。そうして箸の先で料理をつまんで、そのまま暫く何かを思い出しているようだった。
 「その週の終わりだったと思う。朝出社したら、購買課の辺りが妙なんだ。なんだか、ざわざわしているっていうか、ばたばたしてるっていうか。それで、知っている購買課のメンバーにどうしたんだと聞いたよ」
 「何かあったんだろうか」
 「そうしたら、高村課長が急なことに、亡くなったという話だ」
 私は、思いもかけないことにひどく驚いた。
 「えっ、それは急なことだな、何か事故にでも遭ったのだろうか」
 「もちろん、僕も驚いたさ。それで、なんで亡くなったと聞いたが、はっきりした事はわからないということだった。だが、それから色々な話が耳に少しずつ入って来て、いくつか分かった来たこともある。公にはされていないが、どうやら自殺だったらしい」
 私と、白井の間に、僅かばかりの沈黙の時が流れた。私は、一体何があったのか、いろいろなことが頭に浮かんだが、白井の次の言葉を待っていた。
 「自殺の理由は本当の所は分からない。だが、会社のあるいは仕事上での何かのトラブルがあったのではないかという話だ。なぜなら、その知らせがあって、すぐ会社の人間がお悔やみに向かったそうだが、家には入れてもらえなかったという話だ。奥さんは、会社のことをひどく恨んでいたそうだ」
 「その、内容は分からないのか」
 「残念ながら、その内容というのは分からない。おそらくその時会社から行ったのは、直属の上司である、生産部長と総務部長だと思う。話では、生産部長には葬式にも来ないでくれと言ったらしい。そんなことからだと思うが、自殺の原因は、その部長かあるいはその上からか、何かのトラブルを押し付けられて、のっぴきならない立場に追い込まれていたのではないかという話だ。ただし、あくまでもこれは噂だがな」
 その奥さんは、何かを知っていたのだろう、私はそう思った。
 
 「そうか、ところでさっき、白井は、課長の言葉を不思議だと云って、そうして、表情が強烈な印象になっていたとも云っていたな。気になるな、どうしてそう思ったんだ」
 「その時、課長が自分のことを『僕』と言ったことが、ひどくミスマッチに思えたんだ。『俺』かあるいは『私』なら違和感がなかったと思う。あの会社で渋面をつくっていた課長のイメージとどうしても一致しなかったんだ」
 「おいおい、白井だって自分のことを『僕』と言ってるくせに、それは随分勝手な物言いだな」
 「そう云われると返す言葉もないが、後から、課長はその時、学生時代の自分に戻っていたのじゃないかと僕は思ったんだ」
 「その時の、課長の表情だが、誰もいないステージ上を見ていた。だが実際に見ていたのはその空間ではなくで、彼がかつて学生時代に見ていた光景を見ていたのではないかと、僕はそう思った」
 「そうか、見ていたのは実は、違う現実だったということか」
 「学生時代の彼を、僕は想像することは出来なかったが、若くて多感で、そうして現在の彼のように屈託などなかったのではないか」
 「そう考えたか、なるほどな、共感できるよ」
 「もしかしたら、恋人と来たことがあったのかも知れない。僕は、彼の表情を見ながらそんなことを考えていた」
 「誰にだって、青春時代はあったはずだからな。それにしても、高村課長とそういうことがあったのは、なにか不思議なことだったな」
 「そうなんだ、普通だったら、個人的な話などまったくすることなくすれ違っていたはずの人だけに、なおさら印象が強いんだ」
 その高村課長というのは、どんな人だったのだろうか、会ったことが無い私には、やはりイメージを浮かべることは出来なかった。
 「それが、サラリーマンという実は矛盾に満ちた世界に本当に足を踏み入れた第一歩ではなかったかと思う。僕らのチームは、それから一年もしないうちに解散することになった」
 「そうなんだ」
 「まあ、世の中の流れとか、会社の方針というようなものから、早晩そうなることが自然だったとは思うが、実はその解散は僕が早めたのかもしれない」
 私は、驚いてその理由を訪ねた。

 「つまり虎の尻尾を踏んでしまったということさ」
 そういうと、白井は、今度は少し茶目っ気のある目で私を見た。
 「島崎も分かると思うけど、どんなことにも本音と建前ってあるだろう」
 「実際のところは、あるもんだな」
 「仕事もそうだと思うが、本当に成果を挙げるためには、なかなか建前だけではいかないこともあるだろう」
 「そんなことは、当たり前のことさ」
 「実は、ある外注さんの営業担当者に、腹を割って本音のところで協力を要請したことがあった。当時の自分は若かったな、結局こちらは仕事を出す側だという自惚れもあったのだと思うが、こちらの言うことは何でも聞いてくれると思い込んでいた」
 「ということは、何かうまくないことが起きたのか」
 「よく考えて見れば、立場が違うのだから利害関係が一致しているとは限らない。ましてや相手を良く知らなかったのさ。これはずっと後になって知ったことだったが、その担当者から当時の工場長に、私の悪口が耳に入ったということだった」
 「それは、最悪だな」
 「その内容そのものはある意味間違っていなかったが、本音の所が逆手に取られていた。だから建前を前面にだされれば、確かにそのような話の内容では、私は印象の悪い担当者だったことになる」
 「ありがちな、話ではあるな。しかしなぜ、工場長の耳に入ったんだ?」
 「何のことは無い、その担当者と工場長は友達だったのさ。若い頃からの友人のようだった。そればかりではない僕は余りにも無知で迂闊だったよ。その担当者は、営業部長だったが、実はその会社の時期社長といわれていた人物だったのさ」
 「それは、重要なポイントだな。それにしてもどうして彼が、次期社長なんだ」
 「なぜだと思う、理由は二つあったのさ。ひとつには、実績つまり売り上げをあげていたということさ。工場長とのパイプを生かして、相当な量の仕事を請け負っていた。もう一つは、要は切れ者だったということさ。そこのところは僕がまったく抜けていたところさ」
 「ということは」
 「そんなことを、なにひとつ知らない僕を、おそらく彼は『偉そうな話をする若造』と見ていたに違いないと思う。そういえば、購買課の連中が、彼のことを『工場長の友達で、なかなかの曲者だから気を付けたほうが良いよ』って云って居たのを後から思い出した。しかし、当時はその意味をよく理解していなかったし、気にも留めていなかったんだ」
 「そうだよな、仕事はただ一生懸命遣ればそれでいいと言うものでもないからな。サラリーマンといえども実績をあげて、初めて評価されるわけだ。実績を上げるためには、いろいろなことにも気を配らなければならない、決して生易しいものではないよな」
 「当時の僕は、そのただ仕事をしているだけの人間だったと思う。さっき話したように、それから色んな部署を渡り歩いて苦労もしたよ。だが、僕はあの高村課長のことから、サラリーマンとか仕事について考えるようになった。そうして、虎の尻尾のことも知った。だから、僕は世の中は注意深く渡らなければならないと思うようになった」
 「なるほど、そんな経験をしたのか」
 「僕が、ここまで何とか遣ってこれたのも、正直この経験があったからだと思う。これまで、何人も会社や組織の重みに潰された人間を見て来ている。その中には、同期の仲の良い奴も居た。身体を壊した奴も居るし、精神に変調をきたした奴もいる。僕が知る限り、皆真面目で良い奴ばかりだった。でも僕は彼らを見ていることしかできなかった。なぜなら自分のことで、精一杯だった」
 それは、私にもよく分かる話だった。確かに世の中には、矛盾も不公平もある。だが、そのことにいくら嘆いてみても、気休めにすらなるものではなかった。ひたすら、耐えるか立ち向かうか二つに一つでしかなかった。だが、いずれにしても道は険しかった」
 「僕も責任ある立場になってゆくにつれ、本当にきついと思うことがあった。そんな時、僕はこう思って凌いできたのさ。『どんなに、ひどいことになったって、まさか命まではよこせと云わないだろう』そうして、時折、高村課長はそう考えてみようとはしなかったのだろうかと思うことがあるんだ」
 私は、白井の気持ちが痛いほど良く分かった。現在の私自身が、まさにそんな状況であった。

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