第九章 懐かしい風景
「ひとつめは、初めの電話のとき話をしたと思うが、神沼部長さ」
「そうか、彼ね」
「さっき話したように、僕はいろいろな仕事をしなければならなかったが、建屋の新設とか増設にも係わっていたんだ」
「そうか」
「それらは、当然工場に運営にかかわることだったからな。食堂でもつくるというんなら業者任せでもいいんだが、生産設備とかいろいろある場合には、それなりの計画立案やいろいろな取りまとめ事項が発生してくるんだ」
「そういう接点があったんだ」
「あるとき工場の増設をすることになって、依頼先の建築工事会社の責任者が彼だったというわけさ」
「なるほどな、彼はきちんと仕事をしただろう」
「そうだな、仕事はよくやってくてたよ。それになかなか人間的にもいい奴だったな」
「本当に、いい奴さ」
「あるとき、外で彼といっぱいやったことがある。その時に、僕が北海道にいたことがあるという話から、君の話が出てきたんだ。びっくりしたよ。そうして、君がいける口だと知ったというわけさ」
「なるほど、それが一つ目の理由というわけか。ところで、彼は変わりないのだろうか」
「今回、退職することになったと電話したら驚いていたよ。元気そうだったな。そうそう、君に会いに行くと云ったら、よろしく伝えてくれと云っていた」
私は神沼の人懐こい笑い顔を思い出して、ひどく懐かしい気持ちになった。彼は、とても磊落な性格で話をしていて楽しくなる男だった。そうして無類の酒好きであった。しかし、仕事の方はけっして大雑把ではなかった。実に緻密でしっかりしていたから頼りになった。そんな彼であったから、会社内でも順調な、出世街道を歩んでいるようだった。
「そうか、そう云っていたか。ところで二つ目の理由は何なんだ」
そうして、私は、彼の口から出たその言葉に驚くと共に、懐かしい子供の頃の風景を思い出すことになった。
「島崎、実は君は僕の子供時代の憧れのヒーローだったんだよ」
彼は、私の表情を伺うように見ると、言葉を続けた。
「君も知っているように、僕は運動がかっらきしだめだったろう。それに性格が引っ込みじあんだったから、転校先ではなかなか友達ができなかった。いつもクラスの仲間と、遊んでいた君がうらやましかった」
そう云われた私は、少しは彼の気持ちを理解することが出来た。彼は、転校生であった。だから私のように、小さい頃からの遊び仲間が回りにいっぱいいるわけではなかった。そうして確かに、スポーツではなにをやっても確かにへたであった。自分が子供の頃遊ぶといえば、圧倒的にスポーツをすることが多かった。性格も大人しかった彼は、そんな輪のなかに入ることができないでいた。 それでも、彼は勉強が出来た。だからそのことで、彼を周りの連中は一目置いている存在ではあった。だが、彼にとっては、確かに楽しい少年時代ではなかったのかもしれないと思った。
「ところで島崎、夏の終わりに、野原で立ち話をしたことを覚えているか」
「ああ、覚えているとも。随分遅くまで話し込んだよな、確か日が暮れたので切り上げたんじゃなかったっけ」
そのときは、確か学校帰りのとき、たまたま彼と一緒になった。彼の家と、私の家は結構離れていたし、帰るルートも違っていた。どうしてだったかは思い出せないが、その時は、たまたま一緒になったのである。初めは、おそらく他愛のないことでも話をしていたのだと思う。だが、いつの間にか話が盛り上がって、家の近くにあった野原で立ち話を始めていた。当時は、いたるところにいわゆる空き地と呼ばれるものがあった。
そのときの、詳しい話の内容はほとんど忘れたが、白井はいろいろな不思議な出来事について、熱を込めて話していたことを覚えている。私は、初めて聞くことかりであったから、すっかり彼の話に魅せられていた。 そのなかで、ひとつだけ忘れられないことがあった。
「『エッフェル塔の潜水夫』の本のはなしのことを覚えているか」
私は聞いた。
「そんなことを、話したかもしれないな」
「その時、おまえはこう云ったよ」
「エッフェル塔と潜水夫って、どう考えても、全然結び付きようがないと思わないかい。あまりにその題名が不思議だったから、僕はこの本を読む前から、すっかりとりこになってしまっていたんだ。だから君もぜひ読んでみると良い。最後に、こんなにかけ離れているものが、本の中で見事に結びつくんだ」
結局、私は彼の云ったその本を読もうと思いつつ、今日までその機会を逸していた。
だが、私が彼のその言葉を、忘れなかったのは、その話そのものが強い興味を感じさせるものであったが、それよりも、その話をしている白井自身を不思議なことを云う少年だなと思ったからであった。そのことは、強烈な印象となって私の記憶の中ににずっと残っていたのであった。だから、彼から電話があった時も、すぐに思い出すことができたのである。
「うん、確かにそんなことも話したことがあると思う。僕は、その時、君と話を出来たことがとても嬉しかった。さっきも云ったように、君は僕のあこがれの人間だったから、友達になれたらいいなって思っていた。だから、その後、友達になれるかもしれないって思ってたんだ。でも結局は、友達になることはできなかった。どうしてかって?君の周りには常に友達がいたよね、僕は彼らが苦手だったから、その後も君と話をすることができなかったのさ」
私は、今になってそのときの彼の気持ちをようやく理解することができた。
白井は話を続けた。
「そうして、あのことがあったんだ。君は覚えているかな?」
そういうと、白井は話を続けた。
十二月になった頃だったかな、僕は親に言われて街まで、年賀状を買いに出かけたんだ。せっかく街まで来たからと、本屋とかあちこち寄ったんだ。そうしたら、思ったより遅くなってしまって、慌てて郵便局に寄ると、家路を急いだ。いつもなら表通りを帰るところだったが、遅くなってしまったからいつもはあまり通らない裏通りを歩いていた。周りは暗くなってくるし、少し心ぼそくなってきて、少し心の中で後悔しながら、急ぎ足になっていた。すると、後ろから追いすがって来た奴らがいた。そいつらは、二人だった。僕の前に立ちふさがると、こう云った。
「よう、そんなに急いでどこに行くんだい」
その二人は、中学生のようだった。一目で不良だと感じた。後から、考えたら、僕が年賀状を買ったときから後をつけていたのだと思う。兎に角、ぼくは蛇に睨まれたカエルだった。奴らは家は、近いのかと聞いてきた。僕は、もっと先だと云った。何も,正直に答える馬鹿などいないと思うが、その時は、そんなことなど考えも及ばなかった。 二人は、顔を見合わせると、ニヤリと笑ったよ。
「おまえどこの小学校だ」
僕は、怯えながら自分の学校の名前をいった。
「ところで、なにをそんなに大切そうに抱えているんだい」
「家から、頼まれた買い物だから」
「ふうん、そうかい。ちょっと見せてくれるかい」
僕は、いやだと云おうと思ったが、その時は喉が渇いて言葉にならなかった。
その時なんだ、離れてはいたけど、話をする声が聞こえてきた。後ろから何人か歩いて来るのが見えた。
二人は、それを見ると、舌打ちをして、そうして僕に黙っていろと云った。僕ら三人は、黙って立っていたよ。
後ろから来た彼らは、私達を見たが、黙って横を通り抜けていった。そうして、最後に通り過ぎたのが君だったよ。
「あれっ、白井じゃないか。何やってんだこんなことろで」
すると、二人の兄貴格の男がこう云った。
「こいつと、話をしていたところだ、お前達には関係の無いことだからさっさと行け」
白井のその話は、忘れかけていた、古い懐かしい風景であった。陽が沈んで、辺りは暗くなっていた。畑の脇の人通りの少ない道だった。
そうしたら、君はこう云ったんだ。
「そいつは、僕の友達だ。だから置いて行くわけにはいかない」
「なにい、お前ら怪我をしないうちに、先に行けよ」
あいつらは、そう云って凄んだよな。
でも、君はこう云ったんだ。
「兄さん達、中学生かもしれないけれど、僕らの方が人数が多いよ」
「たかが、五人じゃないか、それでおれたちに叶うと思っているのか」
「そうですかね、僕ら結構足がはやいんですよ。誰か近くの家に行って警官呼んでもらいますよ」
そういえば、一人の男子は、今にも走り出しそうな格好をしていたな。
「なにおっ」
思ってもいなかったことに、その男は言葉につまっていた。
「チビのくせに、知恵だけは働くやつだな。もういい、帰るぞ」
そんな捨て台詞を残して、あいつらは去っていった。
「ああ、そんなことがあったな、思い出したよ。あのときは、近所の仲間と映画を見に行った帰りだったんだ」
「僕は、君のお陰で助けてもらったけど、一番嬉しかったのは、僕のことを『友達だ』と云ってくれたことなんだ。だから、君とはどうしても仲良くなりたかったけれど、友達になれないまま、一年間が過ぎてしまった」
そうだったのかと、私は深い感慨にとらわれた。だが、当時の私は、彼の心の中の思いなど知る由もなかったのである。
「だから、君はずっと僕の中のヒーローだったし。色んなきついことがあった時には、君ならどうするんだろうと考えることがあったよ」
「白井に、そう思っていてもらえたとは、光栄だ。だが、今の俺は、ヒーローでもなんでもない、ただのしょぼくれ親父さ」
「そんな、ことはないさ。会って、やっぱり、君は君だとそうおもったよ」
「お前って、そんなにいい奴だったんだ。よし、少年時代の思い出に乾杯し直そうぜ」
私達は、すっかり盛り上がって、ぐい飲みで二度目の乾杯をしていた。